自力と他力、そして自由意志(4):A君のとりあえずの理解

 これまでの自力、他力、自由意志の話を聞きながら、A君は自分なりに単純化して、まとめてみました。

 私たちは世界の中で行動しています。その世界は因果的な連関をもつ出来事や状態の集まりで、因果応報のこの世は「環境」と呼ぶことができます。行動もまた環境世界で起こる出来事の一つですから、世界の因果連関の中に組み込まれています。このような因果の鎖の一部分を取り出してみると、次のような一連の系列が見えてきます。

(1)環境、遺伝子→心(=信念+欲求のシステム)→行動

(2)神(仏)、環境、遺伝子→心→行動

(1)は科学主義的な立場からの因果的系列の図式、(2)は神や仏の意志や本願が入る立場からの因果系列の図式です。環境内で起こる変化は知覚装置を通じて脳に伝えられ、そこで心によって処理され、環境内に行動(行為)による変化を引き起こし、それが繰り返し生じます。知覚装置を通った刺激は情報として処理されるのですが、その処理が自力によるのか、他力によるのかによって宗教的な立場の違いが起こってきたというのがA君の解釈です。

 二番目の矢印→は行動の原因としての心の関与を示していますが、最初の→は外部の原因によって引き起こされる心の状態(特定の信念や欲求をもつこと)を示しています。心が行動に関与しているかどうかは私たちの常識的な世界ではしばしば重要な役割を果たします。例えば、ある行動が故意か否かは裁判の判決において大きな違いを生みます。でも、心の働きと物理世界との関係は決して明らかではありません。この明らかでない関係が引き起こす典型的な問題が自由と決定に関するパズルです。このパズルは次のように表現できます。人間の信念、欲求、そして行動がその人自身のコントロール外のものによって引き起こされるなら、そこに私たちの自由な裁量は入っていません。上の最初の矢印→では環境や遺伝子が人間の心のあり方を決定しているように見えます。環境や遺伝子は私たちのコントロール外のものです。それらが心の状態を決定するなら、二番目の→の結果は自発的になされた行動ではないことになります。でも、私たちは自分の行動が自発的なものであり、それゆえ、その行動に対して責任をもたなければならないと思っています。そうであるなら、どのようにして行動が自由選択の結果と言えるのか、これが伝統的なパズルです。つまり、伝統的なパズルを含んだままで、自力か他力かと問い、それが異安心にまでつながるという事態が長い間続いてきて、いまだに埒が明かない状況が続いている、これがA君の単純な要約です。

 でも、何とも中途半端で、何かがおかしいというのがA君の実感です。そして、他力や自力の意味が曖昧だというのも明々白々で、経典やテキストの解釈では全く不十分だとA君は考えています。