回心は自力それとも他力?

 小乗と大乗の違い、自力と他力の違い、信仰をもつきっかけの違い、これらはこれまで混同されてきたケースが多いように思われます。親鸞パウロの回心の類似性はこれまで比較宗教学的な見地から多くの意見が出され、様々に議論されてきました。

 模索中の親鸞聖徳太子が示現し、京都吉水の庵にいる法然に縁を求めよ、と告げます。親鸞は迷わずに、夜明けとともに法然を吉水の庵に訪ねました。既に69歳の法然比叡山を下り、他力専修念仏を説き続けていました。

 自力は我が身と心をもって浄土へ往生すること、他力は阿弥陀如来誓願の中で念仏往生の本願を深く信じること。自分は悪人だから、如来に迎えられるはずがないなどと思ってはならず、人はもともと煩悩をもつのだから悪いにきまっている、と思ったほうがよく、自分は心が正しいから、往生できると思ってはならず、自力では浄土に往生できない、これが親鸞の他力本願のエッセンスでした。

 パウロもキリストが彼に現れたことによって回心します。それがなければ、パウロの回心はありませんでした。パウロの回心は神の介入によるものでした。その意味で、親鸞の言葉でいえば、自力ではなく他力です。旧約のアブラハムの場合でも、神の約束を信じ神の命令に従うことを敢えて恐れず、なんらの保証を求めようとしなかったアブラハムは、神の前に自力を放棄しました。そして、それをパウロは、信仰の典型としたのです。

 親鸞パウロも回心を経験しますが、そのきっかけはそれぞれ聖徳太子、イエスでした。真の信仰をもつきっかけは外からやってくるのが普通であり、ブッダやキリストもそうだったのではないでしょうか。外部からのきっかけを他力と呼んでもよいのですが、そうなると小乗と大乗、他力主義と自力主義は別々に考えなければならなくなります。