他力本願:『歎異抄』の謎

 『歎異抄』に魅せられた人は意外に多く、それを哲学として読んだ若者が20世紀には多かった。見事な文章というだけでなく、異安心の糾弾を通じて親鸞の教えを説く迫力は凄まじく、それだけで魂を掴むのが『歎異抄』。解説書の類は数知れず、『歎異抄』の10章までは親鸞の教えを述べ、11章から18章までが親鸞没後に登場した異安心の教説を質したもので、「異なるを歎く」肝心の部分になる。

 親鸞の教えは周到な論理構成と巧みなレトリックによって見事に語られている。異安心を通じて真宗の正しい他力本願の教えを徹底したいという『歎異抄』の目論見の成功には前半のパラドクシカルな謂い回しが大いに寄与している。それが第3章の冒頭「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」である。それは何の論理的な破綻もなしに、読み手の心を鷲掴みにする。では、これがなぜ整合的な主張なのか。

 旧約聖書には、アダムとイブの堕落以後、その子孫がユダヤ民族をつくり、堕落によって追放されたエデンの園に再び帰っていく歴史が述べられている。ユダヤ民族は神の国(地上天国)を建設するために、神に選ばれた選民。そして、堕落した人間を救済するために、神からキリストが救世主としてユダヤ民族に遣わされた。だが、救世主を待ち望みながらも、多くのユダヤ人たちはイエスを救世主と認めず、十字架にかけて殺害してしまった。ユダヤ教はキリストを救世主とは認めない。ユダヤ教の教典は、『タナハ』(『旧約聖書』と同じ書物)で、その内の『モーセ五書』はトーラーと呼ばれ、教典の重要部分になっている。これに対して、キリストの説いた教えは『新約聖書』となり、キリスト教の教典になっている。だから、地上天国へユダヤ民族を導くという神と交わされた契約を「旧約」、キリストを信じる者を神は救済するという契約を「新約」と区別している。

 キリスト教は原罪を持つ人間を救済するために、神から無原罪のマリアを通じてキリストが遣わされたという救済の宗教。キリストは人類すべての罪を自らが背負って十字架上で亡くなり、3日目に復活した。そのキリストを信じることによって、人間の原罪は贖われ、神に許されるというのが、キリスト教の救済論である。

 さて、『歎異抄』の3章を確認し直しておこう。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。)  

しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」。

(ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っている。)

この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。

(これは一見それらしく聞こえるが、阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反する。)  

そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。

(なぜならば、自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏の約束の対象 にはならないのである。)

しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

(しかし、自力をすてて他力に帰すれば、 真実の浄土へゆくことができる。)  

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

(欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうしても迷いを離れることができない。それを阿弥陀仏がかわいそうに思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためだから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのである。)  

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。

(それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かると仰せになった。)  

 

 日本宗教思想史上、最も有名な文章と言われているのが上記のもの。「往生」は助かるということだから、「善人でさえ助かるのだから、まして悪人は助かる」となれば、パラドクスではないか。しかも、それが親鸞の言葉ということだから、誰もが驚く。では、その真意は何かとなって、様々な解釈が出てきた。本当に親鸞は「知識や能力のない愚か者でなければ助からない」などと述べているのだろうか。

 世間では悪人でさえ助かる、だから善人はなおさら助かる。このような考えは一見もっともらしく聞こえるけれど、それとまったく逆のことが第3章で言われている。なぜ親鸞はこんなことを言ったのか。彼の目的は「本願他力の意趣を明らかにするため」である。「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」は本願他力の意趣にあっているが、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」は本願他力の意趣に背いている。「本願他力の意趣」とは阿弥陀仏の本願のことで、『歎異抄』第1章では「弥陀の誓願」と表現されている。阿弥陀仏のその約束とは、この世から未来永遠に「絶対の幸福」に救うと誓った約束である。

 仏教が目指すのは、苦悩の中にある人々を救うこと。でも、勝れた人しか悟りに辿りつけないのでは救えない。そのため、そこからでてきたのが大乗仏教。大乗とは大きな乗り物のことで、代表的なものが「浄土教」。仏が住むのが「浄土」。この娑婆世界では、誘惑が多く、「行」を完成させることが難しい。ならば、娑婆で「行」を修めきることができなかった人も、まずは一旦、「行」を修めるのに適した仏の世界に生まれさせ、そこで誰もが心ゆくまで「行」を積み、それを完成さる、このようなアイデアが生まれてくる。しかし、これもまた「自力」の延長にある考え方。浄土で自らの力によって成仏を目指すため、浄土で「自力」を使うことに変わりはありません。浄土に生まれる(=往生)ためにも、やはり善い行いを積むことが必要になる。ところが、この浄土教の中から大逆転の考えが起こる。それが浄土宗や浄土真宗に見られる「念仏」の教え。浄土真宗の開祖親鸞は20年も比叡山で修行し、そこでわかったのは、「行」を最後まで修め切ることのできない自分の姿。つまり、自分が凡夫だとわかった。そこで出会ったのが浄土宗の開祖の法然法然は「南無阿弥陀仏」という念仏だけで救われると親鸞に教えた。なぜそんなことが可能なのか。仏となるためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、その願を成就させるために「行」を修めることが不可欠。しかし、一般の人たちが菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めることは、とてもできそうにない。でも、実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」がいることが、経典に書かれていた。その経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』。そこで説かれた阿弥陀仏は自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそ救わずにおれないと願い、行を修め、仏となることを誓った仏。では、どんな方法によってそれを実現させるかといえば、阿弥陀仏が私に代って「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届けるという方法。ですから、私はただその「南無阿弥陀仏」という言葉をいただく、つまり念仏することによって、阿弥陀仏の浄土に往生し、仏と成ることが約束される。

 この阿弥陀仏の力による成仏の道には、私の力は全く介在しない。阿弥陀仏の側で、私が仏になるために必要な事柄を準備してくれる。私はそれをただ受け取るだけで、これが「他力」の教え。ここでの「他力」の「他」は、私以外の人という意味ではない。親鸞は「他力といふは如来の本願力なり」と言う。如来とは阿弥陀仏のことだから、他力は阿弥陀仏の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)の働きであると理解できる。そして、この「他力」という言葉は二つに解釈できる。一つは私を主にした解釈、もう一つは阿弥陀仏を主にした解釈。私を主にすると、私に対しての「他」は阿弥陀仏ということになり、そのはたらきが本願力=「他力」になる。だが、阿弥陀仏を主にすると、今度は「他」は私になる。だから、私をターゲットにした働きが、阿弥陀仏の本願のはたらき=「他力」になる。

 さて、ここからが私の仮説の話である。阿弥陀仏は、「万人は悪人だ」と見抜き、その悪人と約束したと考えてみよう。約束の相手は善人ではなく、助かる縁がない悪人である。悪人に対して約束したのが阿弥陀仏の本願なのだが、「万人=悪人」と親鸞が考えたのであれば、『歎異抄』の第3章は至極当たり前の主張となる。悪人も善人も見掛けの区別に過ぎなく、どちらも本来は悪人なのだ、つまり万人は悪人だとなれば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と「悪人なおもって往生を遂ぐ、いわんや善人をや」とは論理的には同じことを述べた文になる。

 原罪と救済の関係が、悪人と本願の関係に重なっている。救済や本願を必要とするのは、人の本能が煩悩を引き起こすことにある。人が本能に目覚め、自由意志をもち、欲求をもつようになることと、人が生得的に煩悩に苦しむこととはこの現世の世界では同じようなことである。そして、その救済にはキリストや阿弥陀仏の他力に頼ることしかないという主張も極めて類似している。

 まとめれば、(1)万人は悪人(罪人)である、(2)本能は煩悩である、(3)救済は他力による、の三つの事柄がキリスト教真宗に共通していて、それらが見事に述べられているのが『聖書』であり、『歎異抄』なのである。そして、これが謎に対する私なりの答えのアウトラインである。

 最後に、他力宗教には異端、異安心が多発してきたが、多くの場合、その理由は私たちが自由意志をもち、自由に行動できることにあった。これは仮説の(1)によれば、どのような状況でも自由意志は悪であることを含意することになり、現在の私たちの常識とは相反する。私たちの自由が異端や異安心の原因や理由になることは、自由意志が宗教と信仰がもつ特徴と本質的に両立しないことにあるのかも知れない。

20日に告示された鹿児島県知事選で、県選挙管理委員会が作成したポスターに「人まかせにする」という意味で使った「他力本願」に仏教関係者から抗議を受け、差し替えた。県選管によると、仏教関係者から「他力本願は仏の本願という意味で、ポスターでの使い方は適当でない」と抗議があり、県選管は「他力本願知事」を「人まかせ知事」に訂正すると決めた。「苦しい(困った)時の神頼み」を略し、「神頼み知事」の方が適切なのだろが、今度は神道からクレームが来るかも知れない。