行為と倫理について(5)

3.4選択と決断:指令関係
 私たちは部屋の状態を表象し、そこから部屋が汚いので掃除をしよう、寒いので暖房を入れようといったことを考える。掃除をする、暖房を入れるという行為を生み出すまでの思考は、心理的に得られる目的的な系列である。それは予測、推量と呼ばれ、外的情報をもとに考えられる仮想的な系列である。この思考内容の系列は、それを因果的に並べても意味のある系列ではなく、様々な考えが浮かんでは消え、消えては浮かぶといったランダムに見える系列である。むろん、それら思考を支える脳過程はランダムではない。「決める」と「決まる」の違いがここには明瞭に出てくる。行為を「決める」過程としての思考過程は決して規則的なものではなく、試行錯誤的である。その過程ではアブダクション帰納法も使われている。決まった部分は脳過程としては確定している。決める立場から、計画としての因果系列が複数心の内でつくられる。つくられた複数の因果系列の中から選択される過程もここに含まれる。系列の可能性の範囲は外的要因、内的要因によって決まるが、それら要因の強弱は始終変わる。外的要因は刺激としての外部状態であり、内的要因には思想、伝統、知識等が含まれている。
[因果系列の非推移性]
 次のような議論を考えよう。環境と遺伝子からの因果系列の結果として、ある脳状態が実現したとする。その脳状態が出発点、つまり、原因になって目的からの系列の構成が情報処理の一環として心によってなされる。その結果、ある行為が実行されるなら、最初の脳状態が原因で、行為が結果であるような因果系列がそこにあることになる。だが、これら二つの系列は推移的ではない。したがって、環境と遺伝子のある状態は実行された行為の原因ではない。
 この議論で使われた推移性(3.1にも登場した)について述べてみると、次のようになる。

因果性は二つのレベルの異なる因果系列の間では非推移的である。

これはA-B-Cの系列について、Cの原因がBであるが、Aではないことがあることを意味している。殺人の動機と、その動機の由来は異なるか、あるいは確率的な結びつきしかないだろう。因果系列間の非推移性は次のように表現できる。

X-Aという系列1と、A-Bという系列2から、それらを合成して、X-Bなる系列をつくることはできない。

環境、遺伝子からある脳状態までの系列1とその脳状態に付随する信念や欲求が表象するものから思考される系列2は合成することができない(上の説明では同じAが使われているが、正確には異なっている。同じAを使いたければ物理主義を採ればよい)。 
[表象内容]
 表象は何を指示するのか。温度計の目盛の値の指示対象は温度である。温度は部屋の特定の性質である。目盛の値の意味内容は温度概念、温度から帰結する事柄等を含んでいる。表象の指示対象はそれを文に直したときの指示対象であり、文として表現された状態である。そして、その文の意味が意味内容ということになる。指示対象や指示内容は部屋の状態に関する特定の記述の仕方に依存する。というのも、「部屋は暑い」という文は、

部屋のミクロな状態について
部屋が何からできているか
部屋が誰のものか
部屋の使われ方

等については何も述べていない。物理的な部屋の状態の一部が「部屋は暑い」という文で表現されている。指示対象は部屋の暑さによっても、その意味内容は発話者によっても、その文で伝えたい事柄によっても変わってくる。
決定論的過程と決断]
 このような比較をもとに、温度計の目盛の値や表象がその後どのように使われていくかを考えてみよう。温度計の目盛の値をじっくり考えるのは私たちであり、温度計ではない。表示の指示や意味は温度計に代わって私たちが考える。表象の場合も、表象の指示や意味を考えるのはその表象をもつ人でなくとも構わない。表象を所与のものとして、その指示対象や意味を考え、それを使って予測や見込みを立てるといった活動がスタートする。「決める」プロセスのスタートである。既に、「決める」プロセスの例として将棋やチェスのゲームの進行を考えた。ゲームは当事者の決断の連続であり、それが力や技の出し合いとして私たちにはスリリングに映る。むろん、これらの一連の過程は決定論的な出来事として連続的に追跡できる。しかし、決定論的な追跡過程のどこにも決断は登場しない。多くの可能性からいずれか一つを選択し、その実行を決断するということは追跡型の既述のどこにも登場しない。
 決定論的な追跡では表面に出ないのは、付随している部分で進行している事柄である。付随しているものは因果的に無力なものが大半である。というのも、統合する原理はしばしば説明原理となり、物質的な基盤を持っていない場合が多いからである。選択と決断の対象は付随しているものについての選択、決断であり、その結果だけが実現される。選択や決断の前の可能なものはその下にある物理過程を当然もっているが、それらを実現する過程ではない。考えていることとそれを実現することは異なる物理過程である。可能なものが下に物理過程をもっているからこそ選択や決断が実行できる。付随する世界では「決める」という見方で進行している過程が考えられるが、そこでこそ自由が解釈できる。自由は「決める」自由であって、自由に決まるのではない。思想、宗教、規約等は内容に対する規制であるが、決定論はそれらを操作する脳の生理過程に対する規制である。
 表示機能をもつ対象は、その対象の由来と対象の表示内容が独立している場合が多く、その違いを無視するとしばしば遺伝的誤謬(genetic fallacy)が生まれる。ある事柄の内容の説明にその事柄の由来を使ってしまうことが遺伝的誤謬と呼ばれている。温度計の制作の由来は温度計の特定の表示内容と関係ない。室温が20度であることを説明するのにそれを計った温度計がどのように作られたかは必要ない。
 では、温度計の内部状態と表示、つまり目盛の値は関係があるのだろうか。これはありそうである。温度計が正常である限り、表示は温度計の内部状態に付随するから、表示が異なれば、内部状態も異なることになる。だが、表示と内部状態の関係は因果関係だろうか。温度計が正常に機能する限り、表示と内部状態の間には対応関係が成立している。つまり、表示Aには内部状態Bが対応し、その逆も成立している。しかし、一方が他方の原因あるいは結果という関係ではない。外部の状態と温度計の内部状態の間には因果関係があり、そこから外部の状態と表示の間にも因果関係があると考えるのが普通であるが、表示と内部状態の間の関係は表示関係であり、因果関係とは考えられない。表示するものと表示されるものの関係はことさら時間的な前後関係を想定する必要はないからである。

3.6自由の存在
[自由と決定の両立]
 「心的因果は随伴現象に過ぎない」ことは何を意味しているのか。狭い物理主義と広い物理主義の違いは還元に対する寛容性の違いであった。「心的因果は随伴現象に過ぎない」ことは狭い物理主義において成立する命題である。これはいわばモノクロの世界である。これに対して、広い物理主義ではモノクロの世界にカラーを認めることになる。かなりの生物は実際に色を感知し、それに反応し、利用している。このように、色は還元できるかもしれないが、生物が色を利用して生活しているという意味で、色は実在性をもっている。色を還元しない物理主義では色は物理的なものとして特徴づけられる。これと同じように、表示、指令関係を還元しない物理主義では自由は実在するものとして特徴づけられる。色の実在が物理学の法則に違反しないように、自由も物理学の法則に違反しない。つまり。自由は物理学的な決定論に違反しない。
 私たちの行為に関して、因果関係と表示・指令関係はいずれが優先生をもっているのか。直接経験されるのは表示・指令関係であり。因果関係は経験を通じて推論されるものである。選択や決断も直接に経験できるが、それらを付随させている生理的な過程は推論されるものである。直接経験されない因果的過程は背後に存在し、行為の邪魔をしないようになっている。シンボルの二面性は混同を起こさせないような仕組みであるかのような役割をもっている。その切り換えは随時できるが、両方の系列を関係づけようとする場合に、決定と自由の伝統的ディレンマが生じるように見られてきた。両方の系列を同時に経験できないが、それらは同時に存在している。特に内部の生理的な系列は原理上、直接に経験できないものである。表示、処理、指令関係は付随的な関係の具体的表現であり、特定種類の付随関係につけられた名称である。表示内容、処理内容、指令内容がその下にある生理的過程に付随している。
 心的なものに限らず、隠れてしまうプロセスは存在する。自然選択はそのよい例になるだろう。自然選択は物理過程を追跡する途中には登場しない。したがって、遺伝子の適応度の違いは頻度の違いという結果から特徴付けられることになる。遺伝的浮動は別の例である。このサンプリングエラーは追跡過程には全く登場しない。それどころか、その存在さえ経験的な検証が困難である。このように系列を見ていただけではわからないものは、可能な系列の組とその組の時間的な頻度変化を見ることによって間接的にわかってくる。
 上のことは自由と決定についてそれぞれの議論の場が異なっていることを示している。一つのものを追跡することと、複数のものからの選択がそれぞれ異なる場であるとすれば、自由と選択を併記するのは危険であることがわかるだろう。
今までのことを整理してみよう。

 自由は付随している心的領域にある選択と決断である。
 選択と決断は物理過程の追跡では姿を見せない。

因果系列は出発点と到着点が任意に選べる。これを最初に仮定すれば、すべては簡単になる。しかし、この任意性は説明レベルのものに過ぎなく、実際の現象では任意性はない。だが、心の内での可能な因果系列はこれが可能となり、任意の出発点、到着点が許されるようになっている。決定論と運命論の違いを思い出すなら、任意に原因、結果を選べるという決定論の特徴付けは、「決める」世界での決定論の特徴なのである。