自力と他力、そして自由意志(2):ニーチェの場合

 キリスト教的な価値観が長く支配したヨーロッパ社会ではキリスト教の神の意にかなうことが善で、それにそむくことが悪でした。人間は強者に対する弱者の妬みや嫉み(ルサンチマン=憤り、怨恨、憎悪)をいつも生み出します。そして、強者に対する弱者の不平不満の気持ちが、過去への復讐心や未来への償いを求める心(「今はつらいが、未来や来世は必ず良くなる」という他力の心)を生み出します。人は、「道徳的には自分が正しい、いずれあいつらは地獄に落ち、自分は天国にいける」という気持ちを持ち、これが善悪という価値の起源になる、というのがニーチェの主張です。キリスト教的価値観はこの考えにぴったり適合します。ニーチェキリスト教的な神や価値観、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅し、現実の世界が意味を失い、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを「神は死んだ」と表現しました。

*「神は死んだ」の表現は『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)の108章、125章、343章にある。125章の記述を抜粋すると、Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet!(God is dead. God remains dead. And we have killed him.)

 キリスト教的な清く正しく美しくという生き方は、世の多くの弱者に対して今どんなにつらくても、清く正しく美しく生きていけば、来世は天国に行けるという考え方を植えつけてきました。それをニーチェは「現世は原罪を背負う、呪われたかりそめの生であり、本当の生は来世にある」とする現実否定の思想、ニヒリズムと表現します。

 ニーチェによれば、善悪という価値に始まり、あらゆるものの価値は人間のルサンチマンに求められるものであり、それは決して神によって定められたものではありません。西欧の人々が生きる基準に置いてきた、キリスト教的な清く正しく美しい生き方というものは、実は人間のルサンチマンに始まるものです。そして、ルサンチマンと表裏一体となって人間社会を作り上げてきたキリスト教的価値観は、「無への意思」として否定されなくてはならない、とニーチェは考えました。

 かくして、ニーチェは「神は死んだ」と宣言します。例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な文言があります。これは、貧しい者、無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つ怨念やねたみが隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったもので、キリスト教の母胎であるユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものでした。そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれていると彼は考えたのです。ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者、病人、苦悩する者)が強者(能力のある者、健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ニーチェキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げると見做したのです。つまり、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」への本能的な欲求(支配欲、権力欲、性欲、我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 彼が否定したのはキリスト教の「神」だけではなく、自分よりも崇高なものを認める価値観すべてでした。ですから、イデア世界に不滅の真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属し、その他、自分より崇高な価値観である「理想」、「理念」も否定していきます。つまり、それらは弱い人間が逃避した結果であり、自分の生を意味づけるために捏造したものであり、虚構であると暴いたのです。そして、真の価値基準を、「神」、「天国」、「真理」ではなく、自分が生きる現実の「大地」に置くべきとしました。

 また、ニーチェキリスト教が「畜群本能」にとらわれた道徳をもつとしました。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し、没個性的に生きることで安心する心理によって支えられています。そのため、ニーチェは民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪しました。

 さて、ニーチェは善悪というものの始まりを人の心の在り方の中に見出そうとするため、つまり、何か外部に客観的な基準が存在し、それによって善悪が評価されているのではないと考えるため、この世界に対して善悪という区別をつけることができないという主観的な立場に立ちます。そして、善も悪も無い世界が永遠に続いていく「永遠回帰」を設定します。ニーチェは、「人は動物と超人との間に渡された一本のロープ」だと言います。そして、人間は現世を肯定し、苦悩を引き受けつつ生の新たな可能性を見つけ出そうとする超人を目指すべきだと叫ぶのです。

**ところで、現在の私たちにはニーチェが嫌い、断罪した弱者の立場は生き物の本性そのものと考えられています。生き物は畜群、集団をつくって生活しています。一生物個体だけで生存、生殖し、種の存続を図ることはできません。自然選択は集団の中で多数派となったグループが支配的になり、少数派を駆逐する仕組みです。生物世界における強者は集団の多数派でしかありません。これはニーチェの考えが生物学と両立しないことを示しています。