善なる神が全知全能ならば、悪は何に由来するのか。グノーシス主義はその解答の一つ。物質があふれた宇宙はそもそも神が創造したものではなく、サタン(悪)や不完全な神の代理人が創造したもの。それゆえ、物質には悪や不備がつきまとっている。このように説くのがマニ教で、物質や肉体は悪で、善はそれらと対極にある霊的なものと魂とに限られると主張する。このようなマニ教の教義はキリスト教、ゾロアスター教、グノーシス主義、そして仏教が混淆して生まれたものであり、善悪の二元論をその基本的教義としている。
マニはユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教を信じていた。マニは物質や肉体を悪と見做し、それがマニ教の教義に反映されている。マニ教は原始仏教のように禁欲的だった。マニ教によれば、肉体は不浄なものであり、悪が作ったこの世界には否定的な価値しか与えなかった。原始仏教の最終目標は、宇宙や世界で何度も生まれ変わる輪廻から解脱すること。それと同様に、世俗を否定し、肉体をもつことを否定したのがマニ教だった。
マニ教の創世神話によれば、世界は悪によってつくられている。世界創世は光と闇の戦いによって始まり、光の王と女王がいるが、この女王は悪に負けてしまう。一方、光の勢力によって倒された悪魔もいた。そして、その悪魔たちの死体から「現実の世界」が生まれる。悪魔から剥ぎ取られた皮によって、十の「天」が作られ、骨は「山」となり、排泄物や肉体は「大地」となった。マニ教によれば、私たちの世界は悪魔の死骸からつくられている。
大乗仏教はイラン文化の影響下の西北インドや中央アジアを中心に発展した。特に、国際的なクシャーナ朝時代に、ヘレニズム的な宗教的シンクレティズム、マニ教などのイランの宗教、ギリシャの宗教、グノーシス主義などの影響を受け、それらが混淆されて生まれた。大乗仏教の特徴を経典で列挙すれば、民衆救済重視・讃菩薩(『華厳経』)、仏に関する有神論・汎神論的傾向(『法華経』、『涅槃経』)、在家主義(『維摩経』)、空思想(『般若経』)等々。大乗仏教の最大の特徴は他者の救済であり、その実践者としての「菩薩」を讃えること。原始的な部派仏教が目指したのは「解脱」した「阿羅漢」だが、大乗仏教が目指すのは「他者救済」を行う「仏」であり、その道を歩む「菩薩」である。これが自力の小乗から他力の大乗へのパラダイムシフト。それゆえ、従来の仏の部派仏教を「声聞乗、小乗」、自らを「菩薩乗、大乗」と称したのである。大乗仏教では「解脱」より「他者救済」が優先され、仏教は出家を否定し、在家を認め、現世に意味を見出す思想へと変化していく。
大乗仏教の誕生はインドにおける民衆的なヒンドゥー教の誕生と似ているし、また、ヘレニズム文化としては、キリスト教の誕生と似ている。イラン系の救済宗教(マニ教、ミスラ教、ゾロアスター教)の影響を大きく受けたと考えられる。
仏教内部の教義の変化が東西世界の交流の中で起こり、宗教さえも国際的な交流の場にさらされ、仏教であれば小乗から大乗へ、キリスト教ならグノーシス主義の台頭と異端、マニ教やゾロアスター教との関わり等々が正に歴史をつくってきた。宗教も哲学や科学と同じように時代に翻弄され、その教義を変え、互いに影響を及ぼし合い、歴史の産物として存在してきた。小乗から大乗へのシフトは自力から他力へのシフトだけでなく、そのシフトに関わったキリスト教、マニ教、ゾロアスター教などが仏教に影響を与えた結果である。仏教はキリスト教やマニ教によってその教義を一新し、大乗仏教として再生することになった。
このような大乗仏教が日本に渡来することになるのだが、その時には既に多くの他の宗教と習合を繰り返した後であり、神道を吸収合併する形で神仏習合するのは苦もないことだった。異なる宗派の間で熾烈な戦いがあり、その結果の一つとして習合となる歴史を経験してきた仏教にとって、自らが神道をリードする形で神仏習合するのは至極容易なことだった。そして、鎮護国家、浄土教から弁天様や大黒様、お稲荷さんまで、いずれも大乗仏教の方便の世界の創造物として役立ってきた。