先日右京さんの正義について述べた。未だに人気のテレビドラマ『相棒』の杉下右京さんは共同体、国家といった組織の安泰より正義を優先する孤高の一匹狼。高倉健が人情ではなく義理のために戦うように、右京さんは警察組織の存続、維持などより、あくまで法の正義を優先し、そのために行動する。『相棒』は謎解きと正義をダブらすことによって日本人の心を掴んだ。「義理と人情」、「正義と善」は同じ対ではない。義理と正義は違うし、人情は善や幸福ではない。だが、それらを敢えて重ねれば、義理の健さんも正義の右京さんも共にヒーロー。
ところで、正義とは何なのか。何の正義か、自由とは何か、平等とは何か、といったことを問い、理想とする社会へと至る道を探るのが「正義論」の役割。人の権利、財産、自由、平等などをどのような価値に基づいて配分するかという配分の正義が主要な問題となる。ロールズやノージックは権利の善に対する優越性を主張するのに対し、サンデルらは「善」の優越を主張する。
ジョン・ロールズの『正義論』(1971)は、現在まで続く正義論の活発な議論の出発点。『正義論』は「無知のベール」と「正義の二原理」という社会契約論からなっている。議論はロールズ『正義論』への賛成か反対からなっている。反対の代表が功利主義。ロールズは功利主義を批判し、社会契約論と系譜を同じくする。一方、功利主義も発展を遂げており、ピーター・シンガーが主要な論者の一人。ロバート・ノージックは著書『アナーキー・国会・ユートピア』においてリバタリアニズム(自由至上主義)を提唱。リバタリアニズムとは、自由への権利がもっとも重要であり、国家は治安維持等の最低限のことだけをおこなう最小国家であるべきとした。マイケル・サンデルが主張するコミュニタリズム(共同体論)は、人間はそのコミュニティと関わり生きていて、コミュニティを排除した「無知のベール」は「負担なき自己」であると批判し、歴史・伝統・文化をふまえた「位置ある自己」が重要であると主張する。普遍的な正義よりも、共同体の絆や美徳の促進による正義の実現を目指す。
このような原理的な話から目を転じて、ゴーンさんが日本から違法に逃亡した事件、アメリカとイランの間の一連の爆撃事件は共に正義という観点から見るならば、右京さんなら果たしてどのように判断し、行動するか気になるのは私だけではあるまい。ゴーンさん、イラン、そしてアメリカの行動はいずれも正義の行動からは程遠いことは誰の目にも一目瞭然。とはいえ、ジャーナリストを含め、多くの識者は保守的な右京さんの明瞭な決断とは違って、既存の法制度や外交常識に対して批判的であり、法の遵守や平和一辺倒の考えに反対はしなくても、それと同時に今の制度の不備、日本の非常識を主張する。その際、上記のような正義に関わる諸説がどのような役割を演じているのか、なかなか見えてこないのである。