上杉謙信公家訓16ヶ条「宝在心」
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず
家訓「宝在心」の各条は、精神状態と行為の関係を、心的状態を原因にして、その結果として行為を説明するという同一の体裁で表現されています。哲学をかじった人なら、日常心理学の常識的説明で、唯心論的、心理主義的説明の典型でもあると判断するでしょう。すると、素朴な疑問は、行為や行動が原因になって心理状態が結果として生じる場合はどうなるのかということです。例えば、三番目の「心に欲なき時は義理を行う」の反対の因果関係「義理を行う時は心に欲なし」の場合です。つまり、心的状態が外部世界の出来事によって引き起こされる場合がよくあるのに、その場合については一切説明されていないことです。
こうして、「宝在心」は心的状態がすべての原因だという主張だと思わせるような家訓になっていることがわかります。心がどのように作られ、どのように正しい判断をするようになるか、つまり心の育成、教育については何も言っていないのです。経験主義的に心を捉えるという現代の一般的風潮に対して、心の状態を原因にして認識や行為を説明する謙信の家訓は、読む人を驚かせる効果十分ですが、それは私たちの常識的な発想を逆転しているからだということがわかります。このような心偏重の考えは仏教や神道などの宗教的な考えが強く影響していたと考えることができます。
謙信やその後の上杉家は「宝在心」を信奉するメンタリストの集団であり、一般のプラグマティストとは一線を画していたと考えたくなるのですが、細井平洲や上杉鷹山は藩経営においては随分とプラグマティストでした。