知識への懐疑

[懐疑のレベル]
 すべてのことを知っている人はいない。皆多くの疑問をもって暮らしている。哲学は疑問を解くことであると言われてきたが、出発点の疑問は懐疑につながっている。正しいと思われている知識に対する疑問が懐疑である。そして、哲学はいつも懐疑と共にあるとも言われてきた。懐疑論の歴史は長く、新しいタイプの知識に対して新しい懐疑論が提出され、懐疑論も知識の理論と共に変化してきた。プラトン流の懐疑論は、私たちは自身の直接的な経験から独立した実在を知ることができないという積極的な主張をもっている。ピロン (Pyrrho, 365BC-270BC)の懐疑論はより注意深く、私たちが知識をもつことを否定しないが、その判断を中止するように求める。あるタイプの命題を実際に知ることができないというのが第1レベルの懐疑とすれば、プラトンの懐疑は第1レベルの懐疑である。一方、ピロンの懐疑はそれより弱いもので、あることを知ることができる、知ることができないという二つの相反する主張が同じような強さの根拠をもっていた場合、それについての判断を停止しようというものである。つまり、あるタイプの命題を知ることができるかどうかわからないという第2レベルのものである。
 普遍的懐疑論は、私たちは何についても何一つ知ることができないと主張する。どこかで知識は可能だが、ここやそこの特定領域では不可能であるとするのが局所的な懐疑論である。局所的な懐疑論の典型は外部世界、他人の心、過去、神、倫理的な真理の知識についての懐疑論である。誰もこれらのいずれかを一度ならず疑ったことがあるだろう。ゲチアの例も正当化された真なる信念が知識にとって十分でないことを示すという点で、知識への局所的な懐疑である。懐疑は時には知識そのものに、時には知識の正当化に、そして両方に向けられる。通常、私たちが考える懐疑は第1レベルのものだろう。また、上の外部世界や他人の心の場合、しばしば第2レベルの懐疑が考えられている。

(問)日常生活や科学研究で局所的な懐疑論が果たす積極的な役割を挙げなさい。知識の獲得に懐疑論はどのような役割を果たしているか考えなさい。

[懐疑の具体例]
 懐疑論がもっともらしいという考えを以下に推論の具体例で調べてみよう。

推論1
1. 地球が平らだという昔の人の信念は誤りである。
2. だから、昔の人は地球が平らなことを知らなかった。

推論2
1. 地球が丸いという私たちの信念は誤りかもしれない。
2. だから、私たちは地球が丸いことを知らない。

上の二つの推論から、次のような三番目の推論が考えられる。

推論3
1. もし推論1が正しいなら、推論2も正しい。
2. 推論1は正しい。
3. よって、推論2も正しい。

推論1も推論2も、そしてそれらを使った推論も懐疑論的である。だが、私たちは常識的に、推論2の結論は明らかに事実と異なるから、推論2は誤っていると考えるだろう。そう考えるなら、推論3から、対偶をとることによって、推論1も偽になる。だが、推論1は正しそうである。では、推論3は誤っているのか。推論1に隠れている仮定は、Sの信念pが偽であれば、Sはpを知らない、である。しかし、推論2には別の仮定が必要で、それは、Sの信念pが偽かもしれないなら、Sはpを知らない、というものである。異なる仮定が使われているのであるから、二つの推論は単純に組み合わせることができず、したがって、推論3そのものが誤りである。この例は懐疑論の主張そのものではないが、信念、知識が具体的に入り混じった推論がどのようなものであり、真偽、知識、懐疑がどのように絡み合っているかの一端をこの推論で理解してほしい。
 ほとんどすべての懐疑論的な推論は、私たちが悪魔に騙されている、夢を見ているに過ぎない、桶の中の脳だといった、一見馬鹿らしい可能性に言及する。だが、しばしばこのような馬鹿らしい可能性が知識の本性についての謎を解く鍵を握っている。そこで、私たちがもつ信念に誤りがあり得ることから懐疑論に加担する議論を考えてみよう。すべてのものについて誤りの可能性があることはデカルトだけでなく、誰もが考えることである。次の推論はそのような代表例である。

1. 人が世界についてもつ(ほとんど)すべての信念は誤り得る。
2. 信念が誤り得るなら、それは知識にはなり得ない。
3. それゆえ、世界についての(ほとんど)すべての信念は知識ではない。

「(ほとんど)すべて」は例外があることを示唆している。そのような例外の候補は、「私は今ここにいる」、「2+3=5」といったものだろう。また、信念が誤り得ることは、その信念が正当化できないことを意味している。この推論と似た結論は次のような識別不可能性を使った推論でも得ることができる。

1. 人が誤り得る証拠に基づいて知識をもち得るなら、知識と知識でないものを内観的に識別することができない場合があり得る。
2. しかし、内観的に知識でないものから識別できないような知識はあり得ない。
3. 1と2から、人は誤り得る証拠に基づいて知識をもつことができない。
4. しかし、外部世界に関する命題について私たちがもつ証拠はみな誤り得る。
5. 3と4から、私たちは外部世界についてのどんな知識ももつことができない。

この推論の1は確かに正しい。そして、4も正しいように見える。だが、結論5は受け入れがたい。このような推論は他にもつくりだすことができる。もう一つ推論を考えてみよう。
[伝達性あるいは閉包性]

(a)太郎は人工生命マシーンにつながれた桶の中の脳である。
(b)太郎は腕をもっている。
という二つの前提のもとで、次の推論を考えよう。

1. 太郎は(a)が誤りであることを知らない。
2. (b)は(a)が誤りであることを含意する。
3. 太郎が(b)を知っているなら、(a)が何を含意するかも知っている。
4. だから、太郎は(b)を知らない。

3は知識が論理的な含意関係を通じて伝達されることを述べている。知識の伝達性とは、aを知っていて、「aならば、b」が成り立っていれば、bも知っている、ということである。つまり、知ることは含意関係に関して閉じている。この具体例が3である。太郎が腕をもっていることを知っていれば、彼が人工生命マシーンにつながれた桶の中の脳であることが誤りであることを含意する。この含意関係を知っていれば、桶の中の脳である可能性を排除できないのであるから、腕をもっていることを知らないことになる。したがって、4が導かれ、懐疑論が正しいことになる。
 知ることの含意関係を通じての伝達性あるいは閉包性は強すぎないだろうか。Pを知ることがPでないものの可能性すべてを排除するなら、私たちは周りの世界についてほとんど何も知ることができない。したがって、より妥当性の高い見解は、知識は関連する可能性だけ排除するというものだろう。では、関連する可能性はどのように決められるのか。
一つの見解は次のものである。関連する可能性はもっている証拠を越えた主体の環境の特徴からなるというものである。この点から、ノージック(Robert Nozick, 1938-2002)は閉包性に疑問を投げかける。閉包性の否定は知識の信頼可能性理論に基づいている。彼は次のような条件を考える。

1.P が真でないとすれば、主体はPを信じないだろう。
2.Pが真だとすれば、主体はPを信じるだろう。

これら条件が満たされる場合、主体はPという事実を探知すると言われる。この条件を使って、ノージックは知る人の信念が偶然的ではない仕方でPという事実に結びついていることを示す。そして、この説明を受け入れるならば、閉包性は成立しないと論じる。探知条件1と2が知識に必要ならば、閉包性は誤りである。というのも、探知条件自体は知ることの含意関係に関して閉じていないからである。つまり、ある事実を探知し、別の事実を探知しないことは、別の事実がある事実の帰結であっても可能なのである。太郎は腕をもつことを探知しながら、桶の中の脳であることは探知しないことができるのである。
懐疑論の論駁例]
 懐疑論の正しさを主張する推論はまだまだある。では、このような推論に対してどのような反論をすることができるのか。懐疑論の論駁も今まで色々考えられてきた。以下に懐疑論の論駁例を挙げてみよう。

I. 懐疑論は自己論駁的である。
 懐疑論は私たちが何も知らないと主張するが、それでは懐疑論の主張の前提が真であることも知らないことになる。いつも誤り得ることを知らないし、証拠が誤り得ることも知らないことになる。したがって、懐疑論は自らの主張ができないことになる。
II.知識は絶対的な確実性を要求するのか。
 駅に向かって急いで歩いているとき、ドアに鍵をかけたことを知っているかと聞かれて、鍵をかけたと答えるとしよう。それは本当に確かかと再度聞かれて、自信がなくなり、確実かどうかわからないと答えたとする。最初の問いと二番目の問いは異なった問いで、したがって、異なった答えになっている。つまり、知識と確実な知識は異なった答えを要求している。だから、確実でない知識は可能であり、知識に絶対的な確実性を要求しなくても構わないことになる。