[デカルトの懐疑]
アリストテレスに始まる基礎付け主義は、知識全体を建物の土台とその上の階層的な構造によって理解する考え方である。あらゆる知識は疑い得ない土台となる知識をもとに組織的に構成されていなければならない、知識が基礎付けられていなければ、それは疑い得ることになる、というのが基礎付け主義の主張である。デカルトは「方法論的懐疑」で有名であるが、その目的は懐疑論の克服にあった。彼は懐疑をすべての対象に適用し、懐疑テストにかけた。そのテストの結果、経験的な信念だけでなく、理性的なもの、例えば数学的命題も疑い得ることになり、いずれも懐疑テストをパスしないことがわかった。しかし、そのような懐疑テストをパスするものが一つだけあった。それは、「私が考えていることを私が疑う」ことを私は疑うことができない、ということだった。私は「私が考えている」という命題を信じ、しかしそれは誤っているという可能世界を考えることができない。だから、「私が考えている」という命題は懐疑テストをパスする。したがって、その命題を疑うという試みはそれが真であるに違いないことを証明する。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり」(Cogito ergo sum.)である。
(問)「私が考えていることを私の妻が疑う」ことはできるのに、なぜ「私が考えていることを私が疑う」ことは疑うことができないのか。命題「私は存在する」は懐疑テストをパスするだろうか。また、見たり、聞いたりする、私たちの知覚経験はどうだろうか。
[デカルトの論証]
ここで心的なものの「訂正不可能性」のテーゼを次の推論を通じて考えてみよう。
私の前に黒板がある
私の前に黒板があると私は信じる
私がそれを信じるなら、私がその信念を持つことは正しいに違いない。
デカルトの知識の基礎についての目論見には、「私が考える」、「私が存在する」を含む「私」に見える世界についての一人称の報告が含まれている。主体の経験内容は主体の心の外にある世界の有様については何も語らない。主体が表象する経験内容についての一人称の報告をデカルトは疑うことのできないものと見なした。「私は痛い」と私が信じれば、私は痛いのだというのがデカルトの見解である。
さて、この訂正不可能なものを使ったデカルトの論証はどのようになっているのか。
(1)私は今私の前にあるのが黒板であると信じる。
(2)私の現在の信念は明晰にして判明である。
(3)明晰にして判明な観念は真である。
したがって、私の前には黒板がある。
デカルトの基礎付け主義は、この論証の前提が疑うことができないものであること、この論証の結論が私たちの知る命題であること、の二つからなっている。前提は訂正不可能なもので疑うことができない。したがって、その結論も疑うことができず、私たちは結論を知ることができる。
しかし、(3)が正しいとしたとき、(2)も正しいだろうか。私の現在の信念は明晰にして判明であるだろうか。逆に(2)が疑い得ないとしたら、(3)も疑い得ないのだろうか。「明晰にして判明」は純粋に主観的な信念だろうか。そうならば、その信念が真であることはどのように得られるのか。また、「明晰にして判明」が真であるための必然的な特徴であるなら、信念が明晰にして判明であることはどのようにわかるのか。このような疑問がデカルトの論証について出てくる。
知識の信頼可能性理論
[知識の信頼性]
デカルトの論証によれば、知識は内的に保証可能である。前の論証は主観的な前提、客観的な結論、そして結合前提(主観的前提を客観的結論に必然的に結びつけるもの)からなっていた。デカルトの知識についての理論の特徴は次のように言える。もし主体が結論の真であることを知るなら、そのとき主体は結合前提が真であることを知らなければならないし、また、そのことを感覚経験とは独立に知っていなければならない。つまり、知識は内的に保証可能である。これがデカルトの内在主義(internalism)である。
このデカルトの知識論とは異なり、結合前提は内観やアプリオリな推論によって知られる必要はないというのが知識の信頼可能性理論(reliable theory of knowledge)である。例として、温度と温度計、そして温度表示を考えてみよう。温度計は部屋の温度を計り、それを表示する。部屋にある温度計が信頼できる温度計であれば、そこに表示される温度を正しい室温と考えるだろう。この過程と同じように知識を考えたらどうなるか。次の比較を参考にすると、知識の信頼可能性理論の意図が見えてくる。
温度計の目盛りの値が外界の温度を表示する⇔君の信念が心の外の世界を表示(=表象)する
温度計の目盛りの値が正確(不正確)である⇔君の信念が真(偽)である
では、信頼できる温度計とはどのようなものか。それは偶然に目盛りの値と温度が一致するものではなく、いつも一致するものでなければならないだろう。では、信頼できる温度計は存在するか?当然そのような温度計は存在する。それは次のような信頼性の条件を満たせばよいだろう。
温度計は正しい環境で使用されなければならない。
温度計の内部の構成は正しくなければならない。
このような信頼できる温度計がそれの計る正しい温度を通じて外界に関係しているように、個人が真なる命題を通じて外界に関係しているなら、その人はその命題を知ると言えるだろう。これが知識の信頼可能性理論の主張である。デカルトと対照的に比べてみると次のようになる。
[デカルトとの比較]
信頼可能性理論では、S がp を知るとは次のことである。
S はpを信じる。
p は真である。
Sがいる環境において、Sがpを信じるなら、pは真でなければならない。
それゆえ、pである。
デカルトでは、S がp を知るとは次のことである。
Sはpを信じる。
Sのpについての信念は明晰にして判明である。
明晰にして判明な観念は真である。
それゆえ、pである。
デカルトと信頼可能性理論との知識の特徴付けの違いは内在主義と外在主義(externalism)の違いである。「真」なる知識の保証はデカルトでは精神に内在的なものによって与えられるが、信頼可能性理論では環境によって外在的に与えられる。
(問)知識に関する内在主義と外在主義はどこが異なっているか。特に、知覚経験の知識に関してはどうか。