懐疑と不信:経験主義者の素朴な表明

 嘘しか言わない狼少年が「今自分が言っていることは嘘だ」と言ったとき、それは嘘なのかと問われたら、どう答えますか。「自分は嘘つき」と叫んだのが狼少年で、その狼少年は嘘しか言わないのですから、「自分は嘘つき」は嘘になり、自分の言っていることが本当になってしまいます。つまり、この発言自体が嘘なら狼少年は正直者ということになり、嘘しか言わないことに反します。これが有名な「クレタ島の嘘つき」パラドクスです。

 この頓知のような話を聞いて、イソップ童話の「羊飼いと狼」の狼少年の言動がもつ倫理的な教訓を思い出し、それと関連づける人はまずいません。一方は論理や言語の問題、他方は倫理や道徳の問題であり、二つの話は根本的に異なった分野の事柄だと考えるのが普通だからです。ですから、それら二つを関連づけるにはそれなりの理由が必要だということになります。

 「疑う」ことは人が知識を獲得する上で重要な役割を果たしてきました。デカルトやヒュームの認識的な懐疑について聞いたことのある人が多いはずです。また、太宰治の「走れメロス」や夏目漱石の「心」、あるいはイソップ童話の狼少年の話は大抵の人が知っています。そして、それらの例は、上述の狼少年の二つの話が二つの異なる事柄であることをはっきり示すものであり、関連のないものとして理解されてきました。

 これをより一般的な見地から見るとどうなるでしょうか。神を信じること、人や組織を信頼すること、言明や文の真偽を知ることはそれぞれ異なることだと考えられてきたということです。それどころか、それらは混同すべきではない事柄だと理解されてきました。それらが異なる事柄だということをより一般的に書き出してみれば、次のようになるのではないでしょうか。

 

(1)個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、真理への懐疑)

(2)人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、友情への不信)

(3)神の存在を疑うこと(ドストエフスキー、神への不信)

 

(3)の神を信じる、信じないということは人間の積年の課題ですから、改めて説明する必要はないと思います。さて、これら三つの言明が同じでないとすれば、その間にはどのような関係があるのでしょうか。(3)はとても厄介なので、まずは話を(1)と(2)に限定してみましょう。(1)と(2)の関係は、

 

(1)がなければ、(2)もない、

 

と考えることができます。これが経験主義者の告白で、人や組織の全体を疑うためにはその人や組織の個々の言明や言動を疑わなければならないというつつましい主張です。知人が狼少年とは正反対にいつも真実しか言わないとすれば、その知人をあなたは信頼するはずです。逆に狼少年のように嘘ばかりつくのであれば、その知人をあなたは決して信用しないはずです。これが経験的に正しいというのが告白で、(1)と(2)の言明の間にはこのような関係があるということになります。人や組織が信頼に足るかどうかはその人や組織の個々の言動、活動が真か偽かによって決まることになります。つまり、(1)は(2)の必要条件なのです。

 疑うことと信じることは正反対のことだと思われ、二つの間の関連など普通は考えもしません。しかし、疑うことができなければ信じることができず、信じることができなければ疑うこともできないという相補的な関係が背後に隠れていることに注意すべきなのです。何かを決めるには決まることを使わないと決めることが実行できませんし、決まっていないとそれを変えようと決めることさえできないのとよく似ています。信頼される信念は真でなければなりませんし、偽の信念は誤った、信頼できないものです。信念の真偽が変わることによって、信頼される信念と疑いのある誤った信念の地位はいつでも入れ替わることになります。それゆえ、古い誤りが是正され、新しい信念を採用して、人間関係や組織、制度を変えていくことができるのです。

 個々の信念や言明を疑うことが知識を学ぶ出発点だとすれば、人や組織を疑うために知識を学ぶということになります。友人や仲間を疑うために知識を学ぶというのはとても奇妙なことに思えますが、それは「人や組織を信頼するために知識を学ぶ」ことの別の表現に過ぎないのです。信頼するためにはその知識を信じるだけでなく、疑うことができなければなりません。正にデカルトの方法的な懐疑そのものです。信頼のためのメカニズムは疑うためのメカニズムと基本的には同じなのに、人は通常一方ばかり見てしまい、一つの視点に固執しがちです。デカルトの方法的懐疑は何かを信頼するための方法なのだと考えるべきなのです。人や組織を信頼したり、不信をもったりすることの基本にあるのは個々の信念や言明に対する真偽です。人を信頼するにはその人の日々の言動がなければ、納得できる判断はできません。組織の仕事や決定に対する信頼や自分の関わり方もすべて(1)から得られるものに依存しています。人や組織への信頼や不信という心的な態度は経験的な真偽の積み重ねの結果なのです。以上のことから、(1)と(2)の関係についての経験主義者の主張がどのようなものかわかるはずです。

 では、(3)はどうなるのでしょうか。無神論者は(3)を疑い、否定します。その決定の経緯は(2)の場合と基本的に同じです。ですから、無神論者にとっては(3)は(2)に還元されて、(1)と(2)について議論すれば十分ということになります。神を信じない無神論者には(3)は存在しない、あるいは無意味なのです。では、神の存在を信じる人はどうでしょうか。そのような人については、「どのように信じるようになったのか」を考えてみると、やはりその信じるようになる過程では(2)と似たような葛藤があったのではないでしょうか。ここで忘れてはならないのは、私たちは生得的に有神論者ではありません。神を信じるようになるきっかけ、動機、契機がいつかどこかであったはずです。

 (3)についての様々な物語、小説、戯曲、そして映画のどれをみても神への不信がもつ独自のパターンや内容は見出せません。重大で独特だと最初から疑うことなく受け取られているためか、何が独特なのかといった問いは発せられません。神と人の独特な関係が最初から当たり前のように想定されてきました。肉親や友人への不信と違う、独特の不信が神に対してあるのであれば簡単なのでしょうが、私たちが複数の不信の様式をもっているようには思えないのです。不信や信頼の向けられる対象は様々であっても、不信や信頼が複数の種類に分かれることはなく、いつでも必ず信頼するのが神、時々信頼するのが私の友人といった違いしか見当たらないのです。一神教では、友人への信頼と神への信仰は全く異なるはずだということになっているのですが、それがどのような違いなのかきちんとした説明を誰も知りません。実際、経験主義者にはギリシャや日本の神々への信頼や不信は人に対する信頼や不信と何ら変わるところがないように思えるのです。

 私たちは石や草木、人と動物などを違った対象であるとして見ますが、それらを見る時の見方そのものが違うわけではありません。「友人として見る、敵として見る」ときに、「…として」ばかりが哲学のせいでよく取り上げられますが、二つの文の違いは「友人」と「敵」の違いであって、見ることの違いではありません。これは他の動詞についても同じです。「気づく、知る、わかる、信じる、意識する」等々について、対象が異なるので気づきや知識が違うことが意識されるのであって、同じ対象についての異なる気づきや意識ではありません。気づく私の状態が異なれば、異なる気づきがあることになりますが、それも私の状態が異なるからであって、気づくことは同じなのです。異なった種類の気づき方が複数あるのであれば、(「気づく」という)動詞が異なるのですから、異なる動詞を使って表現すべきなのです。にもかかわらず、言明、友人、神のどれに対しても「信じる」という動詞を共通に使うのはどこでも同じです。日本語なら「友人を信じます、神を信じます」、英語なら「I believe in you, I believe in God」と表現され、同じ動詞が同じように使われているのがわかります。

 高次の意識や低次の意識についても上述と同様のことが成り立っています。「意識(consciousness, awareness)」は高次だろうと低次だろうと、同じ「意識」という単語が使われています。高次の意識と低次の意識が意識として異なるならば、別の単語を使うべきなのです。そうでないということは、意識内容が異なるから「異なる意識」と呼ぶに過ぎないのです。

 さて、(1)、(2)、(3)の区別に戻って考えてみましょう。三つの区別は対象の違いによる区別であって、「信じる、疑う」という私たちの心的な働きそのものの違いではありません。では、対象の違いとはどのようなことなのでしょうか。対象は私たちの周りに存在しているものですから、その違いの根拠は(難しい言葉遣いをすれば)存在論的な根拠ということになります。結局、その存在論的な根拠は知識を使って表現されることになります。対象のきちんとした区別となると、実証的な知識に基づいた基準を使って認識論的に区別することに帰着するのです。そして、最終的には認識論的な第一階の理論(低次、高次の区別がない、一つのレベルしか認めない理論で、通常の科学理論のほとんどは第一階)によって存在するものが記述、説明されることになるのです。

 (1)の個々の言明の真偽はどのように決められたか、再度確認しておきましょう。言明の真偽は私たちの感情や意志で決めるのではなく、知覚経験や知識を使って具体的に判定されます。(2)についても事情はほぼ同じで、友人の個々の言動についての情報を具体的に使って決めていきます。その時、(1)と(2)の判定、決定に違いはありません。それがこれまで主張されてきたことです。違いがないということは(2)が(1)に還元される、帰着することを意味しています。そして、この還元主義は(3)についても同じように主張できるというのがここでのちょっと大胆な主張ということになります。

 重力波の存在については(1)だけ、友人への信頼は(1)の言明の集まりをデータにして、神への信仰も最終的には(1)の言明を頼りにして、それぞれ説明される、これが経験主義者の告白あるいは表明ということになります。

*このような還元主義的、経験主義的な考えは退屈で、面白みに欠けています。それは私たちの感情、情緒、さらには主義主張が考慮されていないからです。ですから、このような考えに違和感をもち、反撥を憶える人がたくさんいるはずです。その違和感や反撥心の根拠が何かを考え、それがここに述べられている内容を論破できるものかどうか思案してみてください。また、信仰をもっておられる方は自らの信仰体験がどのように表現されるのか再考し、経験主義と信仰の両立について考えてみてください。

**「将来のことは誰にもわからない」と仮定すると、これまでの議論はどのようになるでしょうか?こんな簡単な仮定を設けるだけでも、懐疑や不信を考える状況はまるで変わってしまい、とても厄介な問題であることがわかります。

***この雑文はこれまで何回か述べてきたものの改訂版です。