A君の夏休みの課題から:語る自由と話題の不平等

 音楽の話を音楽家でない人がして、絵の話を画家でない人がすることに誰も文句など言わないのですが、宗教の話を宗教家でない人がすると文句を言う人がかなりいます。そこに芸術と宗教の違いを垣間見ることができるとも、話題の選択には制約があるとも、色々に解釈できます。政治や思想の話になれば、むしろそれが常のことです。

 説教や折伏ではなく、宗教に関する話の場合でも、やはり制約や偏見が垣間見えます。ある絵画や画家について話すことを受容するように、ある宗教や僧について語ることを受容しないのが私たちの日常の姿です。宗教について語ることは字面通りにはいかないようで、それは政治や思想の場合に似ています。

 では、科学やスポーツ、娯楽や旅行についてはどうでしょうか。アスリートでなくても競技やゲームについて語ることは自由で、それを職業にする人さえいます。さらに、落語や講談、漫才となると、話芸とも呼ばれるように、語ること自体が演芸となるのですが、語られる内容になると、やはり不平等があります。でも、それは人気が高いものとそうでないものという基準も含まれ、とても複雑になります。

 従って、何を語るかは平等ではなく、その不平等は私たちの知識や思想の濃淡のある差異に基づいているという仮説が浮かび上がってきます。これは「自由に語れる」ことに矛盾しているように見えます。でも、「語ることは自由だが、語る内容は平等ではない」という主張で、矛盾はしていません。

 このようにA君は考えをまとめ、小論を書くことにしました。彼の論旨をまとめると、次のようになります。上述の「不平等」は言明の真偽だけから生まれるなら、とても明解で、それは通常科学的な文脈で具体的な例を見ることができます。でも、仮説の採用不採用、さらには価値判断や評価が含まれるのが私たちの社会の常で、それらがどのように組み合わされるかはとても文脈依存的で、大抵は主観的な判断になってしまいます。そして、それが私たちの社会の実際の姿です。

 A君は「何かを主張するのは自由だが、その何かは肯定や否定、賞讃や批判が可能である」と結論したのですが、余りに当たり前のことで少々がっかりしました。