オオスズメバチの女王バチからの知的刺激

 昨日のオオスズメバチの女王バチとの遭遇は、まず私のとても人間的な反応を引き起こしたのですが、実はもっとずっと興奮すべき内容がそこには含まれていたのです。オオスズメバチの女王バチを見たこともない私が女王バチのハチ社会における役割について色々考えていたことがあり、それは社会性昆虫に関する進化論的な謎とも呼べるものでした。

 真社会性昆虫(eusocial insects)の代表例はアリ、スズメバチ、ミツバチ、シロアリといった昆虫です。メスが子を産む女王と子を残さないワーカーに分かれていることを繁殖分業と言いますが、子を残さないメスの個体がいることの進化論的な意義は謎となってきました。子を残さないという性質は端的に不利であり、進化の過程の中ですぐに消滅する筈です。ところが、実際には多くの繁殖分業をもつ社会性昆虫が存在しています。

 ワーカーの存在を進化の謎と捉えた一人がダーウィンです。ダーウィンは社会性昆虫のワーカーの存在は自分の理論への反例だと考え、問題と捉えながらも、解決には至りませんでした。でも、「血縁選択」に近い考え方をもっていたようです。

 生物進化の大原則は「子どもをたくさん残すことができる性質をもつ個体は、その性質のおかげで子孫の数を増やし、最後にはその性質をもつものだけが集団に存在するようになる」というものです。ところが、真社会性生物のワーカーは多くの場合子どもを生まないので、「子孫を増やす」という法則に従わない性質が進化してきた生物、ということになり、進化論の謎となってきました。ハチやアリではコロニーのなかには普段はメスしかいません。働きバチや働きアリもみんなメス。女王はメスで、オスの王はいません。アリやハチの世界は完全な女系社会です。

 真社会性生物にも様々な社会形態がありますが、繁殖する個体としない個体が協同する特徴は共通しています。自分の子どもを残すという個体の利益になる行動をせずに、他個体の繁殖を補助する「利他行動」行動の存在が、真社会性生物とその他の社会性生物を区別する点です。自然選択説によれば、生物は自らの子孫をより多く残すように進化します。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げ、他者の繁殖成功を高める行動が見られます。特に顕著なのがハチやアリなどの真社会性昆虫で、この場合には一部の個体は全く繁殖せず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やすのです。このような利他的な形質は、自然選択によってすぐに個体群から消えてしまう筈です。

 ダーウィン以降、利他行動は「集団にとっての利益」、「種の繁栄」によって説明されてきました。個体にとって不利な形質でも、それが種や集団全体に有利となるなら、集団レベルではたらく自然選択(群選択)によって進化するという考えが曖昧なまま受け入れられていました。この状況を一変させたのがハミルトンの血縁選択説です。

 ハミルトンの論文集が手元にあるのですが、地味な論文の積み重ねが後のウイルソン(『社会生物学』)やドーキンス(『利己的な遺伝子』)のベストセラーを生み出すことになった訳です。オオスズメバチの傷ついた女王バチと利他主義の関係を今一度じっくり考えてみたい気分になっています。

*Hamilton, W. D., Narrow roads of gene land, The collected papers of W. D. Hamilton, Vol. 1 Evolution of Social Behaviour, 1996, Vol. 2 The Evolution of Sex, 2001, W. H. Freeman and Company