曹洞宗と浄土真宗の分裂

 キリスト教カトリックプロテスタントの分裂は有名ですが、日本仏教にも多くの分裂がありました。中でも有名なのが浄土真宗で、東本願寺を本山とする真宗大谷派西本願寺を本山とする本願寺派に分かれましたが、妙高市にも二派の寺院が共存しています。次に有名なのが曹洞宗永平寺派と總持寺派でしょう。この二つは氷山の一角に過ぎませんが、宗教集団の争いが絶えなかったことを如実に物語っています。こうして、宗教の第一義は宗派ごとに異なることになり、信者たちは自らの宗派の第一義に固執することになります。それだけでも宗教は正に人のつくったものであり、宗派の分裂を通じての自己主張は、正に人の(個性的な)本性の表現であることを示しているのです。

 禅宗を代表する臨済宗曹洞宗の違いはまず座禅の違いです。臨済宗坐禅を悟りに達する手段と考え、公案を思案する「黙照禅」であるのに対して、曹洞宗坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって座禅する「只管打坐(しかんたざ)」の「看話(かんな)禅」です。次に、臨済宗鎌倉幕府の庇護のもとに鎌倉を中心に上級武士に広まったのに対し、曹洞宗は下級武士や一般民衆の間に広く受け入れられました。

 曹洞宗内では開祖道元が開山である永平寺と、太祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が開いた總持寺とに分裂し、交互に宗派の管長を勤める両本山交替管長制度をとってきました。数百年来両山の確執は絶えませんでしたが、明治維新の頃には、積極的な活動を展開する總持寺派が永平寺派の10倍以上の末寺を保有するまでに勢力を伸長していました。明治元(1868)年6月、新政府が両山に対して沙汰書を発給し、ようやく調停が成立しました。現在、曹洞宗に属する約15,000の寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に二分されています。大学も永平寺系の駒澤大学東北福祉大学總持寺派の愛知学院大学鶴見大学などに分かれています。

 永平寺三世徹通義介(てっつうぎかい)の時代に道元の只管打坐に基づく厳格な禅風を守ろうとする保守派と柔軟に教えを広めようとする徹通らの進歩派とに分かれ、徹通は永平寺を去り、大乗寺に拠点を置きました。その弟子瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は曹洞宗の大衆化に努め、密教神道も含めてさまざまな教えを取り込み、多くの逸材を育て、全国各地で発展を遂げました。そのため、道元が開いた永平寺曹洞宗発展に多大の貢献をした中興の祖である瑩山が開いた總持寺がともに大本山になりました。

 さて、明応6(1497)年、越後守護代長尾能景が亡父の17回忌供養のため曇英恵應(どんえいえいおう、1424-1504)を開山にして創建したのが林泉寺です。曇英は室町時代曹洞宗の僧で、永平寺の住職にもついています。時代は下り、天室光育(てんしつこういく、1470-1563)は戦国時代の曹洞宗の僧侶で、林泉寺六代住職となり、そして上杉謙信の師です。謙信は天室光育、そして七代益翁宗謙(やくおうしゅうけん)という二人に教えを受けました。

 山門の扁額「第一義」は謙信の揮毫ですが、本堂の正面入口は「林泉寺」の額で、勅賜禅師永平慧玉(えぎょく)(秦慧玉、1896-1985)が書き、本堂内の「第一義」を書いたのは總持寺の勅特賜大陽真鑑禅師新井石禅(1864-1927)です。勅特賜、つまり大正天皇から「大陽真鑑禅師」を生前授与された新井石禅で、誰かと武帝に尋ねられ、「不識」と答えた達磨と違って、身分までもが見事に記されています。すると、達磨、武帝、新井石禅の人物像が異なる風に浮かび上がる皮肉な構図が浮かんできます。自らをどのように表現するかは実に様々で、複雑な心持になります。

 もう一つ永平寺派と總持寺派の存在をそこに垣間見ることができます。林泉寺は本堂の正面入り口には永平寺の秦禅師揮毫の額を、本堂内には總持寺の新井禅師揮毫の額を配しています。二つの大本山が肩を並べていて、何とも溜息が漏れるのです。謙信が嫌った人の配慮、忖度が寺院の額にまで浮き彫りになっているのです。

 浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土に行くことが約束される「他力念仏」の宗教です。蓮如によって浄土真宗は再興され、本願寺を本山として巨大教団に発展するのですが、その後本願寺派大谷派に分かれ、本願寺派の本山が西本願寺であることから「お西」と呼ばれ、大谷派の本山が東本願寺であることから「お東」と呼ばれ、それが現在も続いています。

 本願寺は今から500年前の戦国時代には一つで、織田信長石山本願寺を攻めた石山戦争を契機に二つに分かれました。当時の石山本願寺は難攻不落の砦で、信長は石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることができませんでした。そこで、信長は和睦を求めるのですが、その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、本願寺内が二派に分かれてしまいます。当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、互いに対立したのです。最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡します。

 顕如教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲ります。納得できないのは教如です。その時の支配者徳川家康に変わっていて、家康は浄土真宗の勢力を弱めようとして、不満を持つ教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせたのです。その結果、本願寺は東と西に完全に分かれることになったのです。

 曹洞宗浄土真宗の分裂は随分と違う内容を持っています。曹洞宗浄土真宗の分裂に対する対応はとても違っています。その違いがいずれも人間的であると感じるのは私だけではない筈です。違うことを強調するのも、同じことを強調するのも、いずれもとても人間的だと感じてしまうのです。