United by Emotion

 オリパラの競技会場近くで「United by Emotion」と大書された掲示を見て、びっくり仰天。これは一体何かとチェックしたら、 オリパラ組織委が大会のモットーを「United by Emotion」としたのだった。それをすっかり忘れていた。オリパラ組織委によれば、「United by Emotion」は「感動で、私たちは一つになる」という意味らしい。東京大会は『共生』がテーマで、世界はあらゆる分野で分断が進んでいて、スポーツを通して、互いを認め合い、集まった人間が『エモーション』で繋がることを託したということらしい。因みに、リオ大会のモットーは「A new world」、ロンドン大会は「Inspire a generation」。

 感情や情緒で共生するのが動物の常であるから、「(スポーツの)感動が私たちを一つに結びつける」とは随分と人間的な特別の解釈である。当初は地震からの復興が私たちを一つにするはずだったが、今はコロナウイルスが私たちを一つにしている。では、地震コロナウイルスと違って、スポーツの感動が私たちを一つにするとはどのようなことか。じっくり考えてみると、これら三つは随分と違うことが実感できるのではないか。大谷選手のホームランに感動する日本人もアメリカ人も同じ感動を持つことが字句通りの「感動が私たちを一つにする」ことなのだろうが、それは一瞬の花火のようなもので、さらにそれを共通の体験として生かすには様々な工夫が不可欠となる。一方、地震やコロナは実際の生活と結びついて、私たちの生活に甚大な影響を持続的に与えてきた。確かに一方は楽しい記憶、他方は苦しい記憶であり、同じように記録できるものである。

 心を一つにする、同じ思いをもつことを記念してオリパラを考える場合と、心を一つにする契機としてオリパラを考える場合とはこのように随分と違うのだが、それらが整理されず、混同されたままになっている。スポーツへの欲求は感動、快楽を求めることであり、それは多くの人に共通する娯楽であることをまずは確認すべきなのだろう。

 さすがに、戦争を中止してのオリンピックと同じようにパンデミックを中止してのオリンピックなど、誰も考えないはずだが、それが意外に忘れられている。戦争もパンデミックも確かに難局に違いないのだが、それを乗り越えるやり方はまるで異なり、オリパラは両方に同じように効く、特効薬ではないことを忘れてはならない。

 このようなことを考えながら、昨夜の首相の会見を聞いていたのだが、誰に向かって話しているのかわからず、質疑は予算委員会での質疑と同じで、質問に直接答えることなく、United by linguistic communicationとは程遠いものだった。結局、オリパラの大会開催はパンデミックの中でも感染拡大なしに可能であることを示すことが眼前の目標となったようである。だが、できなかった場合にどうなるのか、それを考えると、テレビで観戦しながら、すっきりUnited by Emotionとはなれそうもないのである。