ロックダウン(lockdown)は、危険、脅威、リスクなどを理由に、建物や地域へ入ったり、出たり、その中を移動したりすることが禁止されることで、都市全体を封鎖する都市封鎖はその典型例。多くのスポーツ大会で導入されるバブル方式は、開催地を大きな泡で包むように囲い、選手や関係者を隔離し、外部の人たちと接触を遮断する方法。
ロックダウンもバブル方式も、接触を避け、隔離によって生命を守り、スポーツ競技を実施するもので、コロナへの対抗策。
戦争を一時中断し、オリンピックを行うことは可能だが、コロナウイルスの感染を私たちの都合で一時中断し、オリンピックを行うことは経験もなく、難しい。だから、ロックダウンや緊急事態宣言の状況ではスポーツイベントを中止するのが常識なのだが、誰が決めたわけでもないのに、オリンピック開催は既定の事実のようになっている。非常識でもオリンピックを強行しようとすれば、無観客というのが次善の策だろう。
ところが、さらに欲張り、有観客にこだわる人たちがいる。そして、「オリンピックの主催者(学校連携観戦プログラムの児童・生徒)は一般の観客ではなく、それゆえ別枠である」と強弁される。
ウイルスの知恵と人の思惑は異なる。人の思惑は様々だが、ウイルスの知恵は生存が目的の適応にある。人の思惑もウイルスの知恵も試行錯誤が介入し、それゆえ、勝ち負けの予測はほぼできない。専門家の知恵は感染症の撲滅でまとまるが、普通の人たちの思惑となると、その内容や目的は千差万別。そのため、生存という一途な目的を持つウイルスに対して、人の思惑は千々に乱れ、目的も定まらない。その結果、人の思惑は局所的、個別的、刹那的、利己的であり、ウイルスの目的とはまるで違っている。
人の政治的な思惑によれば、開会式の観客席には主催者たちと児童・生徒がいわゆる観客より多数を占めることになる。主催者たちはそれに何の違和感も持たず、オリンピックのお祭りが続くことになる。
こうなると、げに恐ろしきは人の言葉の巧みな使い方かと政治家の思惑に脱帽せざるを得ないようにも見えるのだが、コロナウイルスが果たして彼らの利己的な振舞いをおとなしく許すかどうか、そう簡単にはいかない筈で、暫く見守りたい。