不要不急の理由

 「不要不急」の外出を控えることが求められる昨今です。「不要」の反対は「必要」、「不急」の反対は「緊急」という一般的な理解を踏襲するなら、「不要で、かつ不急」の反対は「必要、あるいは緊急」となります。「不要不急」が「不要、あるいは不急」であるなら、その反対は「必要で、かつ緊急」となります。ここには接続詞の「and, or」の論理的な関係が関わっていることが直ぐわかります。

 さて、同級会や郷人会(例えば、えちご妙高会)のような私的な団体の年次総会や懇親会は「不要不急」の代表例です。ですから、コロナ禍で開催が自粛されることになるのですが、その意味は「不要かつ不急」、あるいは「不要あるいは不急」のいずれであれ、開催中止に反対意見はまず出ません。同級会や郷人会の目的や意義は身の危険と引き換えに開催するほど重要なものではなく、誰もそれに同意しているからです。

 それに対して、オリンピック・パラリンピック大会の開催はどうでしょうか。大会開催は「必要かつ緊急」、あるいは「必要あるいは緊急」の代表例なのでしょうか。こちらは意見が分かれることになります。娯楽やスポーツを「必要かつ(あるいは)緊急」とは誰も考えないでしょうが、オリンピック・パラリンピックが「必要かつ(あるいは)緊急」と考える理由は一体何なのでしょうか。年寄りの愚痴に過ぎないのですが、ついこんなことを呟きたくなるのです。

 オリンピック・パラリンピックの開催について、私たちが今何か解せない、もやもやした気分になっているのは、新型コロナ感染症が蔓延する中で開催される理由や意義が何なのか、誰も説明してくれないことです。戦争による中断が過去にあったとはいえ、戦争は人が自らの意思で引き起こしたものですから、自らの意思で終結、中断ができると考えることができるのですが、感染症は私たちの自由意思によって撲滅することは簡単ではありません。そのような状況の中でも開催することの理由と意義は何なのでしょうか。大袈裟に言うなら(そして、少々不正確になるのですが)、多くの生命を賭して開催する目的、理由、意義は何かということになります。

 開催の目的を正面から考える代わりに、どうしたら感染症と大会開催を両立できるかを考える方がわかりやすいのは確かです。二つの問題は実はとても異なっていて、「人間の本性は何か」と「二つの民族は仲良くなれるか」との違いのようなものです。後者の方が扱いやすく、やり甲斐のある仕事と受け取られてきました。オリンピックやパラリンピックの大会開催の意義は何かを考えることと、感染症が流行する中で大会開催を実現することとはどこでどのようにつながるのか、それをじっくり考える時間は既に余りありません。