死は本当に怖いのか

(普通の人の普通の考え)

 もし釈迦のように解脱できるなら、死は何ら恐れる必要のないものになるのではないか。私たちの煩悩の一つは死への恐れとおののきだろうが、それを消し去るには何が必要なのだろうか。悟りに到達できない私たちは、怪我の痛みの極みが死の痛みであり、それが死の恐怖につながっている、と考えるのではないか。となれば、痛みや苦痛のない死は私たちの死に対する気持ちや態度とは随分と異なったものになるに違いないと考えることになるだろう。

 病気や死が苦痛を伴わないものであれば、私たちの死や病気に対する態度は随分と変わってくる。それを理解するために植物を思い浮かべてみよう。植物には苦痛がない。少なくとも私たちはそう思ってきた。だから、樹木を伐採する際、イヌやネコを殺す場合とは違って、相手の苦痛を軽減することなど考えもしない。

 この植物の場合から、感覚遮断による死の恐怖の消滅を私たちはまず考えるのではないか。何も感じなければ、恐れる必要がなくなる。これは実にわかりやすい。だが、それで安心できないというのが私たちの実感ではないだろうか。安心できない理由は死による存在の消失への恐怖である。感覚以外の恐怖はなくなっても、それでも残る恐怖は自分がいなくなる、つまり、自分が死ぬことによる非在である。死が存在するとは、私たちが必ず死ぬということである。

 自分が存在しなくなっても、自分の記憶が他の人に残り、それが消えずに固定され続けるならば、非在への恐怖も軽減されるのではないだろうか。だが、自分の記憶が他者にどのような仕方でいつまで残るかは雲をつかむような話で、現在はしっかりした議論ができる段階ではない。

 自己の欲望が本能を越えてしまうことが人にはしばしば起こる。生物学的に死が不可避のものなら、本能に死を避けることが入っているは自己矛盾のようにみえる。だが、死が恐怖であることが本能の一つに組み込まれている。生きるための手立ての一つが死を避けることであり、死を回避する一つの手立ては死への恐怖を本能化することである。つまり、生きるとは死を恐れることであり、生き残るためには死に対する恐れを常に持ち、その恐れを使って生き残るのが私たちの本能である。

 「恐れる、怖がる」は私たちの感情の一つであり、それを感じることが感覚と同じようになければ、死は恐ろしいものではなくなるだろう。さらに、死の意識、漠然とした恐れ、存在への不安などが続く。こうして、感覚、感情、意識のそれぞれがないものは恐れや不安がないか、少ないものということになる。

 生きるために恐れる、恐れがなければ死は容易に受け入れることができる、生きるために恐れ、恐れがあれば死の回避につながる、それゆえ、生きるために死を回避するということになり、死が怖いのは生きるためには当たり前ということになる。

 何とも単純で、馬鹿らしい結論だが、単純なだけに説得力を持っている。