解脱と涅槃の反人道主義

 人は日々の暮らしの中でそれぞれ欲求、煩悩をもち、それを実現することを目指して生きています。欲求こそ生きることのエネルギーであり、欲求が目標を定めるのであれば、無欲は時に生きることの放棄にさえなってしまいます。個々の欲求の実現が生活の目標となり、それが容易に実現できる場合、哲学や宗教が登場する余地はまずありません。でも、目標の実現が総じて困難な場合、人は欲求そのものについて思索し始め、欲求についての哲学や宗教が生まれることになります。「何かについての」欲求、煩悩が満たされなくなると、「欲求や煩悩」それ自体について考え始めるのが人の常で、人のごく自然な思索プロセスといって構いません。個々の欲求の実現という具体的、個別的な対応ではなく、欲求そのものについて一括して考え始め、欲求や煩悩の本性に迫ろうとするのです。

 

 そもそも原始仏教には、キリスト教の天国の概念がありません。原始仏教では、輪廻(りんね)という考え方に基づき、人は死んだら、また何か別のものに生まれ変わるとされています。初期の仏教の教えでは、輪廻そのものは「苦」でしかなく、その輪廻から解脱(げだつ)して涅槃に入ることが追求されていました。但し、解脱して涅槃に入ることができる人は釈迦のような悟りを開いた人でなければなりません。また、涅槃は悟りとか、煩悩から解放されて自由となった状態を指していて、キリスト教の天国とはかなり意味が異なります。

 『涅槃経(ねはんぎょう)』はブッダの最後の旅の様子が語られた経典です。涅槃には大きく分けて「悟りを開くこと」と、「その悟りを開いた人が死ぬこと」という二つの意味がありますが、『涅槃経』の涅槃は後者の「死ぬ」方です。それは、悟りを開いた者だけが到達できる特別な「死」であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味します。この涅槃という言葉を理解するには、当時のインド人が共有していた「輪廻(りんね)」の考え方を知っておく必要があります。輪廻とは、「あらゆる生き物は、死んでも死んでも、別のかたちに生まれ変わり続ける」という思想です。「亡くなったお父さんが天国へ行って、私たちを永遠に見守ってくれている」といったキリスト教のような生まれ変わりではありません。生まれ変わった先にもやはり寿命があり、その寿命がくればまた別のところへ生まれ変わっていく、このサイクルが無限に続くというのが輪廻です。生まれ変わりの場所も決まっていて「天の神々」、「人」、「畜生(動物)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」という五つの世界で、私たちは生まれ変わり死に変わりを延々と繰り返す、という世界観です(後の時代に、「阿修羅(あしゅら)」が入って六つになりました)。何ともやり切れない世界観です。

 

 生きることは無条件に大切であり、生きるためには最大の努力が払われてしかるべきだという考えは、とりわけ今日の医療の世界では常識で、疑うこと自体が人の道に反するというような受け取り方が一般的です。何にもまして生命は大切だと盲目的に唱えられ、生命への懐疑はご法度になっています。ですから、生命の価値に疑問をもつ映画やドラマは嫌われます。医師も看護師も生命の大切さを御旗にしています。ですが、原始仏教はそうではなく、生命は苦痛そのものであり、生きることから抜け出ることこそが求められていました。ですから、ブッダヒューマニストなどではなく、生命の鎖から抜け出ることこそ幸福だと考え、それを実践したのです。異なる生命観のもとでは生きることを断ち切るが解脱であり、涅槃に入ることとして宗教的に追及されたのです。

  「永遠に再生を繰り返す」と聞けば、嬉しいようにも思えますが、「生きることは苦しみである」と考える仏教の立場から見れば、それは永遠に苦しみが続くということを意味しています。「生まれ変わっても苦しみしかない」のなら、二度と生まれ変わらないことが最上の安楽、安心ということになります。「もうこの先二度と生まれ変わらない」という確信を得たとき、人は真の幸福に身をゆだねることができるのです。そして、そのような状態に入ることを涅槃と言い、それが修行によって追求されたのです。つまり、輪廻を止めて涅槃に入ることこそが、仏道修行者にとっての究極の終着点だったのです。

  では、輪廻を止めるにはどうしたらよいのでしょうか。釈迦は次のように考えました。私たちを輪廻させるのは業(ごう)のエネルギーである。それを取り除かない限り輪廻は止まらない。では、業のエネルギーを作り出す原因はなにか。それは私たちの心の中にある「悪い要素」、つまり、煩悩、欲求です。煩悩や欲求が作用すると業エネルギーが生み出され、私たちは自動的に輪廻してしまいます。したがって、私たちがなすべきことは、自力で煩悩を断ち切って、業エネルギーが作用しないようにすることなのです。そのためには精神集中のトレーニングによって心の状態を正しく把握し、煩悩や欲求を一つずつ着実につぶさねばなりません。それが修行の意義です。

 

 このように説明されると一見わかった気になるのですが、それはどのような「わかる」なのでしょうか。お化けや妖怪変化の物語を読んで、その世界がわかると思ったときの「わかる」なのか、この世界の様々な出来事や現象が説明できるというときの「わかる」なのか、いずれでしょうか。明らかに、物語やシナリオとしてわかるのであって、輪廻の因果連関の規則や仕組みがわかるのではありません。しかも、その輪廻から脱するにはその因果連関を知り、その知識を使って脱するのではなく、心の修行によって煩悩や欲求を消滅させることによって脱しようというのです。これは重力の束縛から脱するのに修行することが大切だと言うのに似ています。ですから、それが如何に難しいかわかります。きっとこのような疑問をもつ人が多い筈です。また、涅槃が悟りの境地ということは悟った心理的状態、意識の世界のことなのか、涅槃が釈迦の死なら出来事を指すのか、考えるとわからなくなってきます。したがって、涅槃の存在論も認識論も路頭に迷うしかないのです。そこで登場するのが涅槃のプラグマティックスです。それは、どのような修行をどのように行い、何を目標に輪廻から脱し、悟りの境地に到達するかのマニュアルにも似た物語です。

 20世紀には科学と宗教の問題はまだぼんやりしていて、両者が共存できると考える人が多数派でした。科学者の中にも信仰をもつ人がいましたし、それが殊更問題になることもありませんでした。神父、牧師、僧侶の中に科学者がいても誰も問題にしませんでした。今世紀末には科学と宗教の関係が真面目に議論される筈です。その前に人の心の仕組みが解明され、生物学とAIによる心のコピーがつくられ、それらを基礎にして、宗教と科学の関係について虚心坦懐な議論が続くのではないかと楽観しています。それが半世紀も続くと、ある程度の決着が得られるのではないかと想像しています。そして、そこにはかつてのような大規模な宗教戦争はなく、あっても小規模なテロで済むのではないかと思っています。