たかが好奇心と探求心、されど好奇心と探求心

 好奇心も探求心も私たちがもつ欲求なのだが、好奇欲とも探求欲とも言わない。同じように、虚栄心も虚栄欲とは言わない。しかし、自己顕示欲とは言うが、自己顕示心ではない。権力欲も権力心ではない。仏教では欲には物の欲(物欲)と心の欲(心欲?)があり、私たちはその欲に振り回される、つまり煩悩をもつと言われる。あるいは、心を満たすことと欲を満たすことは違い、心を満たすことはできても、欲を満たすことはできないとも言われる。人間の欲は際限のないものだが、満たされた心は満足できる。こうなると、民間心理学は言葉遣いの問題であり、レトリックに過ぎなく、「心」と「欲」は時には置き換え可能な謂い回しと言わざるを得なくなる。

 心のもつ性質、特徴があり、その一つが欲求、欲望。そして、欲求、欲望は性質、特徴をもつ。心は信念と欲求からなっている。だから、心は欲求の特徴をもっている。これは身体の場合にも成り立つ。私は身体をもち、身体には特徴があり、その特徴の一つが脳をもつことである。私は心をもち、心には特徴があり、その特徴の一つが欲求をもつことである。このように表現できるなら、それは心身の間に相関関係があることを示していて、さらに、心と脳が同じだと仮定すれば、心身一元論、心脳一元論となり、心は脳に還元されることになる。

 

 好奇心も探求心も欲求なのだが、私たちは同じ欲求とは思っていない。原因と結果の系列によって現象を理解するのが私たちの通常の方法である。まずは外部刺激が感覚器官を通じて入力され、それに対して好奇心が働く。その好奇心に導かれて一連の作業が進行し、定められた目標実現の過程が続くことになる。その過程を支えるのが探求心で、それによって作業が持続され、結果が得られることにある。つまり、原因と結果の間をつなぐものとして、まず好奇心が、次に探求心が働くことによって、一定の成果に至ることができるのである。つまり、原因、入力、好奇心、内的処理過程、探求心、そして出力、つまり結果という系列が考えられ、その系列に二つの異なる欲求が働いていることになる。

 この二つの欲求の共同作業が好奇心を満たすことになり、持続的な探求心がそれを支えていることになる。むろん、私たちの欲求はもっと奥深く、これら二つの欲求だけではなく、人の行動を全面的に支える仕方で存在している。人の欲求の中では好奇心も探求心もほんの僅かな役割しか演じていない。そのためか、二つの欲求によって獲得される知識は盲目的、断片的、刹那的で、地球全体の幸福などにはまるで鈍感で、好きなように悪用されてしまう。

 私たちは未だに欲求自体を組み込んだものへの好奇心、探求心を知らず、私たちの欲求自体に対してどのように好奇心や探求心を働かせたらよいのか、実はよくわかっていないのである。怖ろしきかなと言わざるを得ないが、盲目で、満たされることのない私たちの欲求に対して、やはりよくわからず、頼りがいのない好奇心と探求心で徘徊するしかないのである。