心は欲である

 好奇心も探求心も私たちがもつ欲求なのですが、好奇欲とも探求欲とも言いません。同じように、虚栄心も虚栄欲とは言いません。でも、自己顕示欲とは言いますが、自己顕示心とは言いません。権力欲も権力心ではありません。このような言葉遣いの違いから、「心」と「欲」の間には境界があって、二つは違うものだと妄信されているように思われます。

 仏教では欲には物の欲(物欲)と心の欲(心欲?)があり、私たちはその欲に振り回される、つまり「煩悩をもつ」と言われています。でも、信仰心や信心は欲望や欲求ではなく、煩悩であるとはだれも思いません。では、心を満たすことと欲を満たすことは違うのでしょうか。満足するとは心を満たすことなのか、それとも欲を満たすことなのか、いずれなのでしょうか。

 人間の欲は際限のないものと思われています。となると、探求心も信仰心も欲求であるならば、それらは満たされることがないものなのでしょうか。このように見てくると、民間心理学は言葉遣いの問題であり、レトリックに過ぎなく、「心」と「欲」は時には置き換え可能、時には不可能といういい加減なものになってしまいます。

 好奇心も探求心もある種の欲求なのですが、私たちはそれらを同じ欲求とは思っていません。原因と結果の系列によって現象を理解するのが私たちの通常の方法です。まずは外部刺激が感覚器官を通じて入力され、それに対して好奇心が働きます。その好奇心に導かれて一連の作業が進行し、定められた目標実現の過程が続くことになります。その過程を支えるのが探求心で、それによって作業が持続され、結果が得られることになります。つまり、原因と結果の間をつなぐものとして、まず好奇心が、次に探求心が働くことによって、一定の成果に至ることができるのです。原因、入力、好奇心、内的処理過程、探求心、そして出力、つまり結果という系列が考えられ、その系列に二つの異なる欲求が働いていることになります。

 この二つの欲求の共同作業が好奇心を満たすことになり、持続的な探求心がそれを支えていることになります。むろん、私たちの欲求はもっと奥深く、これら二つの欲求だけではなく、人の行動を全面的に支える仕方で存在しています。人の欲求の中では好奇心も探求心もほんの僅かな役割しか演じていません。そのためか、二つの欲求によって獲得される知識は盲目的、断片的、刹那的で、地球全体の幸福などにはまるで鈍感で、好きなように悪用されてしまうものです。

 私たちの欲求自体に対してどのように好奇心や探求心を働かせたらよいのか、実はよくわかっていないのです。「恐ろしきかな、欲求は」と嘆くしかないのですが、盲目で、満たされることのない私たちの欲求についてはやはりよくわからず、その氷山の一角に過ぎない好奇心と探求心で欲求の周辺を徘徊するしかないのが現状です。