(1)ブッダと欲求の良し悪し
ブッダの仏教は人間の何に貢献するのか?このような人間中心的な問いは人間の傲慢な態度の典型だと批判されても仕方ないだろう。絶対的な神にとっては人間など被造物の一つに過ぎず、その神が人間に貢献するなどということはあり得ない話である。人間こそ神に貢献すべきなのである。だが、ブッダの原始仏教は偏に人間の解脱にその目的がある。神も仏もおらず、そのようなものに頼ることなく、ブッダが考案したマニュアルに従って修行すれば、人は必ず解脱できると説くのである。そして、ブッダのマニュアルを実行しようとすれば、出家し、小欲と座禅の中で乞食のような生活をしなければならない。
欲を棄てることは実に困難。ブッダは科学者にはなれなかった。というのも、その科学は好奇心が前提になっており、好奇心という人間の欲求がなければ科学的な成果など覚束ないからである。知識は好奇心から生まれるが、それは出家した修行者には原則的に禁止されている。欲求がなくなることによって解決される問題と、欲求があることによって解決される問題があり、ブッダの仏教はもっぱら前者に焦点が当てられている。つまり、欲求は基本的に悪であり、欲求は善を生み出さないと考えられている。これはブッダだけでなく、ギリシャ以来の西洋思想にも色濃く見られる宗教の一般的な特徴である。「欲求は悪であり、欲求は善でない」という常識は今でも広く流布したままである。仏教に限らず、およそ宗教は人間の欲求、欲望、欲情を強く否定し、拒むのである。
さらに、ブッダの仏教は文化も生み出さない。文化こそは欲求の結果である。欲求を否定する宗教は自らが怪しく、危ういものだと認識することに鈍感である。宗教は私たちの欲求を否定し、神に従うことを求める。欲求の行使が罪であり、それは罰せられなければならないという考えは、過去に多くの悲劇を生んできた。ブッダの仏教は俗人の欲望に対して何も言わない。完全に中立で、自らを俗世の外に置いている。文化など無視、政治など無視、伝統など無視、さらには家族など、一切合切無視することによって、最後は解脱に至るということであるから、科学も、芸術も、文化も出家した人には空しいものに過ぎない。ブッダの仏教は強い目的を内に秘めた引き籠りの宗教なのである。
私には好奇心がある。だから、哲学的な問題に未だに強い関心があるし、絵画も音楽も楽しみたい。当然ながら、日々の衣食住の多くにも関心をもている。そして、多くの人はそれらが人間の心を満たし、幸福をもたらす場合も、反対に不幸にする場合もあることを熟知している。それが人間流の生き方だとすれば、ブッダとその弟子たちの生き方は随分と違った非人間的なものなのである。だから、その非人間的な教えこそが人間を救うのかも知れない。
*画像は釈迦苦行像(建長寺)
(2)ブッダの意志の良し悪し
(1)では欲求、欲望、欲情といった語彙と宗教、科学が組み合わされて議論が展開された。その議論が「欲求、欲望、欲情」ではなく、「意志、意思」となった場合、同じような議論が展開できるだろうか。そこで(1)の文章を使い、実際に「欲求」を「意志」に変えて書き直してみよう。
ブッダの仏教は人間の何に貢献するのか?このような人間中心的な問いは人間の傲慢な態度の典型だと批判されても仕方ないだろう。絶対的な神にとっては人間など被造物の一つに過ぎず、その神が人間に殊更貢献するなどということはあり得ない話である。人間こそ神に貢献すべきなのである。だが、ブッダの原始仏教は偏に人間の解脱にその目的がある。神も仏もおらず、そのようなものに頼ることなく、ブッダが考案したマニュアルに従って修行すれば、人は必ず解脱できると説くのである。そして、ブッダのマニュアルを実行しようとすれば、出家し、僅かな意志と座禅の中で乞食のような生活をしなければならないのである。
意思を棄てることは実に困難。ブッダは科学者にはなれなかった。というのも、その科学は好奇心が前提になっており、好奇心という人間の意志がなければ科学的な成果など覚束ないからである。知識は好奇心から生まれるが、それは出家した修行者には原則的に禁止されている。意志がなくなることによって解決される問題と、意志があることによって解決される問題があり、ブッダの仏教はもっぱら前者に焦点が当てられている。つまり、意志は基本的に悪であり、意志は善を生み出さないと考えられている。これはブッダだけでなく、ギリシャ以来の西洋思想にも色濃く見られる宗教の一般的な特徴である。「意志は悪であり、意志は善でない」という常識は今でも広く流布したままである。仏教に限らず、およそ宗教は人間の意志や意思を強く否定し、拒むのである。
さらに、ブッダの仏教は文化も生み出さない。文化こそは意志の結果である。意志を否定する宗教は自らが怪しく、危ういものだと認識することに鈍感である。宗教は私たちの意志を否定し、神に従うことを求める。意志の行使が罪であり、それは罰せられなければならないという図式は、過去に多くの悲劇を生んできた。ブッダの仏教は俗人の欲望に対して何も言わない。完全に中立で、自らを俗世の外に置いている。文化など無視、政治など無視、伝統など無視、さらには家族など無視することによって、最後は解脱に至るということであるから、科学も、芸術も、文化も出家した人には空しいものに過ぎない。ブッダの仏教は強い目的を内に秘めた引き籠りの宗教なのである。
私には好奇心がある。だから、哲学的な問題に未だに強い関心があるし、絵画も音楽も楽しみたい。当然ながら、日々の衣食住の多くにも関心をもている。そして、多くの人はそれらが人間の心を満たし、幸福をもたらす場合も、反対に不幸にする場合もあることを熟知している。それが人間流の生き方だとすれば、ブッダとその弟子たちの生き方は随分と違った非人間的なものなのである。だから、その非人間的な教えこそが人間を救うのかも知れない。
*釈迦苦行像(建長寺):釈迦の苦行は彼の意志なのか、それとも欲求なのか。
(3)
(1)の文章を「欲求」から「意志」に代えてできた(2)の文章は多くの人には不自然に聴こえるのではないか。だが、誤りとまではいかず、自然だと思う人も僅かでもいるだろう。欲求と意志をdesireとwillに置き換えても、事情は似たりよったりである。これは何を意味しているのだろうか。欲求と意志はいずれも心の働きを表す伝統的な用語であり、思考と並んで心の三つの働きを表現してきた。(1)と(2)の比較から、次の二つが見えてくるのではないか。
(a)(1)の内容に関しては、欲求、欲望、欲情と並べると、次第に劣化していき、性的欲望が劣情となって、欲求の幅が明瞭に存在することがわかる。ブッダだけでなく、多くの聖人、哲人は邪な欲望への対処に心を砕いてきたのであるが、善き欲求と悪しき欲求の線引きは簡単ではなく、実に厄介なのである。
(b)次に、欲求と意志は明瞭な区別があるかのように思われてきたが、これも実は境界がはっきりしている訳ではない。「…をしたい」という点では欲求も意志も同じように表現される。感情と意志という対がよりポピュラーなのだが、欲求と意志の対と何がどこで異なるかと自問してみるなら、相違点は見つかるようでなかなか見つからないだろう。
人の言葉遣い、宗教、科学、そして意志と欲求という心理の間にはどのような関係が横たわっているのか、そう簡単にはわかりそうもない謎のすそ野が広がっているようである。しかし、そんな闇をすべてターゲットにして、そこから解脱しようというのがブッダの脱社会的、脱人間的なプログラムだった。