観光暴論

(子供の頃に祖父母から温泉地の人たちは土地を耕さない人たちだと刷り込まれた友人が酒を飲みながらいじけて吐いた暴言で、真面目に受け取ることなかれ。)

 観光は人の好奇心と欲望を金と時間を使って満たすもの。観光による癒しという心的快楽の充足は文化・芸術が与える快楽と同じ類のものである。人は心身の渇きを娯楽や観光、そして食事やセックスによって満たしてきた。秘境、秘湯、秘仏、秘伝の類は人の好奇心をそそり、欲望を煽る。秘め事ほど暴きたくなるもの、秘宝ほど独占したいもの、そして見てみたいもの。この相反するような欲求に目をつけ、抜け目なく利用するのが観光で、時には麻薬のように私たちを蝕むことになる。
 「誰もが知ることのできる心の秘密」、「いつでも行ける秘境」、「どこでも手に入る秘伝」には誰も大した興味を示さない。秘密、秘境、秘伝等が手に入れにくいほど人はそれらを手に入れたくなるものだが、手が全く届かないのでは観光は成り立たない。観光には程よい秘密、秘境が求められるのである。
 隔離され、孤立していたことによって生まれたガラパゴス諸島の独自の生物進化、それを見出したダーウィンはその秘密を守ることには思い及ばなかった。ガラパゴス諸島の生態と観光とが矛盾することの間の綱渡りが始まる。「隔離することによって保たれる生物進化の証拠を観光化し、その生物進化を観光客の眼に晒すこと」は実におかしな話で、観光は生物進化を邪魔し、ついには破壊することになる。ガラパゴス諸島には開国した日本以上の苦難が待っていた。観光は孤立や隔離とは相容れず、それらを許さない。秘境と観光とはそもそも両立しないにもかかわらず、「秘境観光」はビジネスとして横行してきた。自然が優しく寛容であることにつけ込み、自然に甘えて、それを搾取してきたのである。
 仏教寺院の巧みな策略の一つが「秘仏」。永久に誰も見ることができない「絶対秘仏」は寺の経営には不利なようだが、浅草寺善光寺も観光という点では実に商売が上手い(絶対秘仏は「見えないものは存在しない」と叫ぶ哲学者への最も有効な反例、浅草寺善光寺鳴り物入りの御開帳は本尊そのものではなく、前立本尊と言う別物。誰も詐欺だと言わず、有難がるだけなのが不思議)。関山神社の別当寺だった宝蔵院の秘仏は2013年7月19日に素直に開帳された。多くの秘仏は決められた日時に定期的に開帳されている。肝心なものを僅かしか見せず、一層興味をかき立て、欲情をそそるというやり方は生物の常套の適応で、それを巧みに盗んだ俗世の定番の方法。
 秘密のものをつくり、それを利用するという策略を穏やかに、優しくしたのが特別化、差別化。優れた風景、名所旧跡、風俗、料理等、それらのどれを見ても、他のものと差別し、特徴を誇張することである。それらが稀であり、心身を満たすものであれば、多くの客を惹きつけることができる。富岳三十六景、近江八景日本三景など、優れた景色はそのような特別化、差別化の典型例。今様に言えば、ブランド化。山紫水明、雪月花、花鳥風月と私たちは風景の定番をパターン化までして分類し、表現してきた。
 観光化するとは、妙高名所図会、妙高八景、妙高三滝(五滝、七滝(河津七滝))、妙高三山(五山)、妙高三社(七社)、妙高七湯等々、差別的な名称をつくりまくることである。そんなバカげた所業を皆で実行することである。さらに、そこには適度に苦労しないと行けないように仕組むのである。妙高の名物蕎麦は1年の内3か月ほどしか食べられないように敢えて決めるのである。何より「観光」概念を変え、国立公園をただ受動的に享受するだけではなく、適度な苦労や努力を観光客に求め、印象づけるのである。
 どう演出しようと、観光が欲望を満たす定番であることに変わりなく、プロテスタント門徒の勤勉さに目をつぶるのが観光地妙高の運命であり、それを妙高の人々は風土と認め、躊躇しながらも受け入れるのである。

*この暴論に反論することは「観光」がまともな生業であり、社会的に価値ある産業であることを示すことだろうが、観光正当化の議論はいかにできるのか。これは中高生の皆さんへの頭の体操になるだろう。さらに、大人たちには、「生命地域主義」と「エコミュージアム主義」はそれぞれこの暴論に対してどのような立場をとるだろうか。これは大人たちへの頭の体操。