花を哲学する(1)

 大袈裟なタイトルに尻込みする必要はありません。花について真面目に考えようとすれば、まずは花の定義をしなくてはいけないと多くの人がほぼ定石通りに考えます。そして、花の定義は「花とは何か」に答えることだと教えられているので、その解答を探すことになります。確かにこれが知識を得るための基本であり、常套手段なのですが、そのような性急に敷かれたレールに乗る前に、「これは何という花か」という問いと比較してみましょう。

 すると、すぐに「色とは何か」、「これは何色か」の二つの問いとよく似ていることに気づくのではないでしょうか。これら二つの問いは誰にもその違いが直接的にわかる問いです。そして、「花」も「色」の場合に似て、別の類似の例だと思うのではないでしょうか。確かに類似した問いなのですが、今は「花」と「色」との違いに注目してみましょう。

 すぐわかるのは、花が進化する生物の持つ部位、部分であるのに対し、色が歴史的に変化してきたとは考えにくいことです。発色のための材料は歴史的な変遷を探ると実に面白いのですが、それは色自体が進化してきた訳ではないことも明らかにしてくれます。生物進化の中で不変のものを探れば、生物個体をつくる物理的な物質は不変の対象であり、それら不変の物質の組み合わせの変化が生物進化を生み出してきたことになっています。つまり、「花」は優れて生物進化の対象なのですが、「色」は生物進化という文脈では不変のものなのです。

 こうして、「色とは何か」と「これは何色か」という二つの問いと、「花とは何か」と「これは何の花か」という二つの問いが見かけはよく似ていても、「色とは何か」と「花とは何か」が異なるものについての問いであることがわかります。では、「これは何色か」と「これは何の花か」についてはどうでしょうか。眼前の具体的な色や花についての問いだとすれば、長い歴史を持つ色や花の記憶や記録についての問いではなく、問いを発した時点での特定の対象についての問いであり、その点では二つの問いは同類の問いなのです。これらの問いは色や花についての知識を前提にしての問いです。「これは何色か」、「これは何の花か」は色即是空の世界での刹那的な瞬時の問いであり、文脈に100%依存した問いなのです。でも、「色とは何か」、「花とは何か」は文脈から(部分的ではあるが)独立した問いなのです。

 では、文脈から独立した「宇宙とは何か」、「世界とは何か」、「人間とは何か」、そして「私とは何か」といった、いわゆる哲学的な問いについてはどうでしょうか。いずれの問いにも共通するのは、文脈、状況から独立に問いが発せられていることです。「宇宙」、「世界」、「人間」、「私」に共通する性質はなくても、どれもそれが不変のものとして前提されて、問いが発せられていることです。少なくとも、伝統的にはそのように受け取られてきました。でも、人間が進化の産物であるなら、不変でも普遍でもない人間は、「人間とは何か」と問われるような対象ではなくなります。さらに、「私」など常に変化する、頼りないものでしかなく、それゆえ、「私とは何か」は間抜けな問いで、「これは私のものか」と言った問いだけがまともで、有効な問いだと思いたくなります。