知覚や意識の在り方とその表象内容:因果的な外在主義

 私たちは何の支障もなく、周りを見渡し、何がどんな風に起こっているかを瞬時に掴んでいると思っています。異常がなければ、何かに気づくとはどのような心的状態なのかなど改めて問うこともありません。でも、「赤信号に変わった」とわかる、意識することは、赤信号に変わったことに気づくことと同じですから、「変わった」ことに気づくには瞬間では十分ではなく、一定の時間の幅が必要であることに気づく筈です。なぜなら、現象変化は因果的な変化であり、因果的な変化には時間がかかるからです。逆に、「瞬時に」気づくことがどのような気づきなのか大いに疑問をもつべきなのです。「瞬時に気づく」という表現はレトリックであり、巧みなまやかし表現に過ぎません。変化に気づくには幅のある時間が不可欠で、その幅によって変化が因果的に実現され、私たちは因果的に知覚することができるからです。ですから、「瞬間を知る、わかる」という表現は変化に気づくこととは違って、知覚の直接的な結果ではなく、認識論的な仕組みがそこに働いた結果として人工的につくられたものなのです。気づく、意識するのは、変化に気づく、意識するのであって、それには時間の幅が必要なのです。
 知覚するという意味での「知る」は、瞬時の情報が基本と言われていますが、情報はつくられたもの、それも後からつくられたものです。最初の知覚は変化を仮定した上で、その変化に気づくことです。瞬間は人工的な合成であり、古典物理学の知識をなぞったものに過ぎません。知覚や意識にとっては区間のある因果的な変化が自然の中の所与なのです。瞬時の知覚など何の意味もないどころか、存在さえしないのです。変化が意味や存在を生み出すのであり、その変化は瞬間によっては表現できないものなのです。
 「意識の流れ」という何とも曖昧で捉えどころのない表現は、文学的な風情を感じる人が多いためか、あちこちで使われてきました。言葉の暴力というに等しいような謂い回しで、それが正確に何を表現しているのか誰にもよくわからないのです。意識が茫洋としている上に、さらに比喩としての流れが平気で組み合わされ、実際のところ何を言いたいのか、意味不明なのです。「記憶の流れ」とは言わないのですが、記憶を意識した時、その意識は流れないのかと自問すると、それだけで私の意識は混乱するだけで、何の答えも出てこないのです。でも、有意味な意識には流れる時間、幅のある時間が必要だと言うことを暗示していることは確かです。
 意識は表象から成り立っていると思われています。表象は心が生み出したものと主張されると、表象する対象も心の中にあるものとつい即断したくなります。記憶が心の機能の一つだと言われると、記憶内容も心の中にあると断定したくなるのと同じことです。でも、本当にそうかどうかは誰にもわかりません。夢の中の飛行機は確かに夢の中にあるのですが、その飛行機は私が2年前に乗った飛行機だったことがわかれば、その飛行機は心の外に実在する飛行機ということになります。飛行機の像と飛行機は、飛行機のコピーと実物の飛行機の違いなのですが、「飛行機の像は何の像か」と問われれば誰もが「飛行機」と答える筈です。ですから、記憶された飛行機が何の像、コピーかとなれば、実際の飛行機そのものなのです。

以上の結論:私たちは時間的に幅のある変化の中で知覚し、意識し、その知覚や意識の表象内容は外部世界の因果的変化の一部である。