神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(1)

 これまで「確定的」と「確率的」の違いについてコイン投げを例にして述べてきた。これから暫く、因果的な生活世界が神話や物語で語られ、次に哲学がそれを論証的に説明し、科学が実証的に記述、説明したことを考えてみよう。
 コイン投げの話題とはまるで異なるのがここでの話題で、「因果的な変化」を私たちはどのように理解し、表現してきたか、それが課題である。「神話、物語」と「哲学的、科学的な理論」は根本的に異なると誰もが思っている。それゆえ、それに気づいたターレスは人類最初の哲学者という栄誉を担っている。だが、実は二つには共通点がある。「唯一の」物語と「普遍的な」理論は、対照的で、対立しているように見えるが、それは見掛けに過ぎず、欺かれてはならない。

<生活世界:因果的に変化する世界>
 生活世界はどのような世界かと問われれば、それは物理学が描く世界とは大違いで、愛や夢に溢れた世界だと答えるのではないか。だが、違いばかりに気を取られると、二つの世界に共通の特徴があることをつい忘れてしまう。二つの世界とも「因果的」なのである。物理学の理論は因果的ではないが、理論が適用される世界は因果的である。少なくとも、生活世界は因果的であり、私たちは昔からそれを当然の如く信じてきた。リンゴは木から落ちるが、その反対は起こらない。物語であれ、科学理論であれ、それらが描く世界は因果的に変化する世界である。物理世界も生活世界も出来事の因果的な生起を私たちが経験することからなっていて、私たちの意識や欲求、感情の経験も因果的である。私は生活世界という環境からの刺激に常に反応している。因果的な変化に反応すること、それが生きることであり、どんな行動も因果的である。私たちの祖先も世界の変化が因果的であることをまず知り、それを基礎にして生活世界をつくり出していた。
 世界の中で次から次へと変化が起きることと、そのような世界そのものが変質していくこととは違う。日々の変化だけでなく、その変化が昔とは随分違った変化になったという実感を多くの老人がもつ。日常起こる変化とその変化が変質することとは異なる。世界観の変化は連続的ではなく、連続的な運動変化とは異質のものである。生活世界をつくっている要素が変わる、変化に関わる要素が新たに加わる、新しい生物種が出現し、新しい生活習慣、生活用品が登場する、そのような契機が生活世界を変え、新しい世界観を生み出していく。古典的世界観は変質し、非古典的世界観が非古典的な科学知識や技術を基礎にして生まれようとしている。
 私たちは遥か昔から狩猟、採集、そして農耕と異なる生活形態を生み出してきた。科学とは呼べないにしても、生活の知恵を巧みに使って生活を営むことを随分昔から行ってきた。それが私たち人間の文化進化の歴史である。私たちの生活世界は私たちの進化の中で生み出されてきた広義の「適応」である。生活形態が文化的適応だと考えられている現在、生活世界とは適応形態そのものであり、生物的な適応だけでなく、知識・文化の適応も含めたものと考えられている。運動変化から進化までを含む変化に共通するのは因果的な変化であり、それを明らかにしたいという探求は結局、因果性の探求ということになる。
 私の関心は生活世界の現象的な姿というより、生活世界がどのようにつくられるか、その基本構造は何か、それがどのように変わるかにある。神話や物語では世界がどのようにつくられるか、どのようなものかが直接に告げられ、述べられる。哲学、科学はそれを人間が自ら行おうとする試みで、試行錯誤を繰り返しながら、世界の基本構造を解明しようと、私たちが考え、語り、つくるものである。そこから生まれる科学的世界像は生活世界と乖離していると断じられる場合がほとんどだが、科学的な知識や技術を含んだ現在の生活世界それ自体が実は二つが融合している確かな証拠となっている。
 生活世界の特徴を具体的に挙げてみると、次のようなものが見出せる。

1. 生活世界は私の生活世界、あなたの生活世界、… そしてそれらの集まりというように、唯一の生活世界から共通の一般的な生活世界まで多様で、しかも毎日変化している。
2. 実在論も、観念論も、表象論も何でもその時々に認めるのが生活世界である。要は、生活世界の思想には一貫性がなく、適当だということである。私は朝実験室で実在論者として振舞い、午後将棋をしながら観念論者として相手の心を読むことができる。
3. 生活世界で有用なのは「使う知識」である。生きるために使う知識が情報である。一方、生活世界をつくり、変えていく原動力の一つも知識であり、それは何かを「探求する知識」である。
4. 一様で均一でないのが生活世界である。生活世界での時空は濃淡をもち、可塑的であり、因果関係も融通無碍になっている。だが、時空の濃淡は一様な時空がないと無意味で、測ることもできない。
5. 生活世界の因果性は物語のそれに似ており、推理小説の筋のような因果関係が生活世界を支配している。生活世界は因果関係が蜘蛛の糸のように絡まり合っている世界である。

 生活世界は常に因果的だが、時には推理小説の謎ときのように因果的でない仕方で因果的な過程を説明する場合がある。また、因果的でない内容を因果的に語り、行動するのも私たち人間である。

<経験的な知識のムラ:生活世界はムラだらけの世界>
 知覚像は正常ならムラがなく、見えているものは一様で均一。知覚対象が一部欠けていたり、濃淡があったりすることはない。ムラがあると、病的な疾患が疑われる。だが、空間に空っぽな部分があるのが原子論を支える主張であり、エーテルが充満しているというのがかつての物理学の主張だった。物理学だけでなく、生態学的にも充満していることが主張された。「ムラがある」のは知覚レベルの現象ではなく、認識レベルの言明である。
 ユニバース、コスモス、スペースのいずれでもない時空間をもつのが生活世界。一方で一様な世界という概念をしっかり持ちながら、他方でムラだらけ、穴だらけの世界を認めるのが私たちの日常的な態度である。科学と日常の違いが色々言われるが、一様な世界とムラのある世界というのがここでの違いである。形式言語と違って、自然言語は多くの固有名詞をもつことによって指示のムラを生み出し、自然言語自体がムラのある表現を生み出している。
 公平で一様な知覚などなく、それが知識のムラの一因になっている。既知と未知、全知と無知、それらの間の均一でないムラ、知らないことの指標としてのムラ、人についての知識、特定個人についての知識のムラ、個人情報のムラ等々、ムラだらけなのが生活世界の特徴になっている。私たちの関心、好奇心を働かすには、すべてに押し並べて興味を示すのではなく、ムラのある好奇心、関心が必要である。それゆえ、次のような原理が見えてくる。

(知識の対称性)
知識のムラは関心、好奇心のムラから生まれる。

ムラのある関心が関心の本性であり、そのもとで局所的に普遍的な知識をもつには均一で公平な理論が必要となる。

<物語(ナラティブ)としての因果的世界>
 物語には必ずと言ってよいほど主人公が登場し、その主人公を巡る物語が展開する。主人公の大半は人間、それも特定の個人で、固有名詞で呼ばれ、架空の存在でありながら、私たちを虜にしてきた。科学理論は人間を構成するタンパク質や組織、器官について説明できても、個人そのものを全体として描き、語ることはまずない。一方、物語は特定の個人、特定の状況に焦点を当てる。物語はある個人の特定状況での独特な行為から成り立っており、一般法則などとはおよそ無縁である。では、特別の例しか描かない物語がなぜ人々を惹きつけるのか。物語が描こうとする対象、登場人物が目指すゴール、物語の中で追求される夢が、私たちを虜にする理由はと言えば、それらが私たちの人生での探求そのものだからではないのか。特定の物語やエピソードであっても、それらが一般的な真理そのものだと直観でき、私たちの感情、意思、願いといったものがそこに盛り込まれていると私たち自身が信じるからなのだろう。
 人は文学や芸術に大きな影響を受けながら成長する。物語や芸術作品は人生を変える力をもち、人生に介入できる。科学理論も人間を変えるが、物語とはまるで異なる物理的な仕方によってである。物語の精神的な影響に対して、科学理論はその応用による物質的な働きによって私たちを変えてきた。
 神話、物語はいずれも哲学や科学の対極にあるものと捉えられている。私たちは何かを探求する物語を読み、人生とは何かを追い求め、何かを成し遂げるものだということを学んできた。それが物語のもつ力であり、物語が人を動かすと言われてきた理由である。この世界に疑問をもったり、反抗したりすることは、新しい物語を求めるのでなく、物語とは異なる別のタイプの「理論」を発見することにつながる。実際、別の物語を求めることに飽き足らず、物語と異なる新しいタイプの「探求装置=哲学的理論」を求めることがギリシャで始まった。理論は物語と異なる、新しい適応の試みであり、世界探求の新機軸、新装置となった。このように書けば誰もが納得するのではないか。創造神話や文学作品が人に与える感動と夢は、登場人物の姿や振舞いを通じて私たちに伝わってくる。理論とは新しいタイプの探求で、私たちの好奇心は真理探求という形で、物語ではなく物語の構造、材料、要素が何であるか明らかにしようと一心不乱になる。
 私たちの生涯が因果的で、始まりをもつように、物語にも始まりがあり、因果的な展開、経緯といったものが物語を構成している。それに対して、理論は非因果的で、「前提」からスタートする。その内容は演繹的な論証からなっている。その論証の典型は数学的な証明である。そして、因果的な変化を因果的でない論証によって説明する新機軸がギリシャで花開くことになった。また、人生に終わりがあり、目的があるように、神話や物語にも終わりや目的がある。理論も目的をもつが、それは真理の探究という共通する、抽象的な目的というより、その理論を応用することによって実現できるものの方がより強く目的として考えられてきたようである。
 神話や物語で展開される因果的なプロットは、実際の時間の経過と矛盾しない範囲で濃淡があり、省略があり、隠れたプロセス、複数のプロセスの交差といったことが自由に起こるようになっている。一様で均一でない変化が神話や物語の内容の特徴であるが、大抵は過去、現在、未来の順序まで犯すものではない。