物語から理論へ、理論から物語へ

 知識を整理していけばまとめられ、ムラがなくなり、最終的に行き着くのは理論ということになります。私たちの生活世界での断片的な事柄が物語として集約され、伝承されてきたことを思い起こせば、理論は物語から始まっていることに納得できる筈です。物語がどのような仕方で理論に昇華され、形式化されるかを辿ることによって、物語と理論の関係が説明できます。逆に理論を適用して現象や出来事を解釈、説明して、物語を紡ぎ出すこともできます。そこで様々な理論を思い浮かべながら、理論がどのような物語から生まれ、またどのような物語を生み出してきたかを垣間見ることができます。
 まずは、物語とは最も縁遠いと思われている数学。数学理論の例としてユークリッド幾何学を取り上げるなら、そこに登場するのは点や線、面や図形といったいわゆる幾何学的対象です。形式主義では数学的対象は単なる記号で構わないのですが、ギリシャ以来、プラトン主義の立場から点、線、面といった対象そのもの(イデア)として解釈されてきました。「点が集まると線になる」のですが、その線をつくり出す物理的過程は物語には登場しません。点をどのように並べると線になるのかという実際の細部にはこだわらず、「線を引く」という私たちの行為を信用して、「点から線が生まれる」ことが物語では前提されています。そもそも点とはどんな対象なのかさえ実は定かではないのです。ですから、誰も点が何からできているかなど考えないのです。「点や線の原料は何か」という問いは無意味な問いとして退けられるしかないのです。
 次は物理学の物語。すべての科学に共通する実証的な実験や観測は因果的でなければ実現できず、それゆえ、実験や観測の手続きは物語的になっています。つまり、実証的=手続き的=因果的=物語的なのです。さて、物理学の肝心の対象ですが、例えば「運動」。運動の原因や結果は運動の一般的な記述とは別に特定の状況として考えられる場合がほとんどです。例えば、「何かが動き出し、その結果、別の何かが止まる」というような個々の出来事です。そうでない場合は運動法則に言及するだけで説明や予測ができ、特定の因果連関を詳しく持ち出す必要はありません。個別の状況として実際の運動変化が取り上げられ、解釈されても、運動法則の適用は同じようになされます。運動法則の適用によって個々の運動変化の物語が解釈され、説明されるのです。
 化学の物語に登場する基本的な物質は元素。運動と並んで物質の構造の解明に人々は好奇心をもってきました。原子論はギリシャ以来の優れた物質と運動についての理論。原子という不変の粒子の組み合わせによる物質と運動の説明は実に見事な仮説でした。それが化学的な原子論仮説になるには18世紀まで待たねばなりませんでしたし、原子が実在することの験証は20世紀に入ってからのことでした。でも、物語は実証的である必要はなく、仮説のままでも現象を理解し、解釈することはできました。
 生物学の物語の核心となれば、生命。今は誰も信じていない「生気論」は、生命は他のどのようなものにも還元できない原理であると主張し、生命物語が展開されました。そして、今でも「生命」は謎を含みながらも、現象の理解だけでなく、私たち自身の生活世界の基本として存在しています。
 これら物語に登場する主役たちはいずれも正体不明で、謎に満ちた対象です。それらは私たちの知識を生み出し、好奇心を掻き立てるもので、永遠の謎、憧れです。知識はそれら謎の原理を主役とする物語によって生まれ、物語によって脚色され、物語によって修正、変更され、その過程そのものがまた物語になっています。物語の筋は因果的な過程の青写真。主人公と主な登場者がどのように因果変化をするかの叙述が物語になっています。例えば、デカルトの方法的懐疑のシナリオ、それぞれの人のもつ人生という物語は私たちが何かを考えるだけでなく、疑い、信じ、恨み、苦しむという心理を含んだ高次レベルの物語になっています。
 信念、そして知識、さらには感情や欲求の内容は本質的に因果的、それゆえ、物語的なのです。論理や言語は論理的、形式的な規則をもっていますが、それは表現レベルの話であり、論理や言語を使って表現される内容は因果的、歴史的、それゆえ物語なのです。情報は物語的であり、物語的でない情報は暗号化された情報で、解読しなければわからない情報なのです。
 私たちの生活世界では理論、物語、そしてそれらによる説明、解釈、理解を厳しく分けることをしませんし、知識と情報の区別も曖昧なままです。それらを丁寧に考え直すだけでも、世界は随分とわかりやすくなる筈です。