諸行無常、生々流転、万物流転、そして絵巻物

 「諸行無常」は『平家物語』が主張する仏教の世界観であり、「生々流転」は岡倉天心の高弟横山大観の大作で、長さは40mを越える(東京国立近代美術館蔵)。「万物流転」となれば、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの哲学的テーゼで、どれも似たような内容だと直感できる語彙である(All things are in flux.)。

 例えば、大観の「生々流転」は世界の絶え間ない変化を表現していて、それこそが世界の本質なのだと言われると、素直に頷いてしまう。その説得力の理由を探すと、自然変化の劇的で巧みな表現にある。大観の画力も、大乗仏教の経典創作能力も、直感的に人々を説得する手段としてはこの上なく見事なのである。一方、「普遍」、「不変」、「不易流行(松尾芭蕉)」などが変化を否定する語彙として思い浮かぶ。不変の哲学者となれば、ヘラクレイトスの好敵手パルメニデスだろう。

 生きることは波乱万丈の出来事を経験することであり、因果的な物語には心躍らせるが、論証的な説明は退屈でしかないという経験を誰もがもっている。私たちの世界は徹底して因果的であり、それを誇張すれば、「諸行無常、生々流転、万物流転」となる。だが、私たちの関与や関わりが弱くなったり、なくなったりすると、因果的でない状況が生まれてくる。私たちの関与が弱くなるミクロな世界や関与のない数学の世界では非因果的な世界が立ち現れる。その意味で、因果的であることは極めて人間的で、そのため人は歴史に重要な役割を与えてきたし、因果応報、栄枯盛衰を経験しながら、誕生から死までの自らの人生を因果的に捉えてきた。時には「因果的=歴史的=時間的」な現実から逃れ、現実から距離を置くために俯瞰的に世界を眺め直したくなり、それが普遍的、一般的な知識の探求を促したのだと言えなくもない。いずれにしろ、私たちにとって生活世界は因果的であり、それゆえ、神話であれ、相対性理論であれ、それを使って生活世界の出来事について述べたり、説明したりする場合は因果的に記述し、説明することになる。というのも、物理世界に因果的でない変化があったとすれば、それは私たちには不可解で、奇跡でしかないからである。

 論証や証明がもつ俯瞰的な観点を最初に導入したターレスは一流の幾何学者となり、幾何学によって因果的な世界から独立した数学的世界の存在を示すことに成功した。彼に始まる幾何学は、その後ユークリッドによってギリシャ数学の主役として『原論』にまとめられることになる。幾何学的な見方を使って世界を非因果的に説明しようとした最初の哲学者がパルメニデスで、その形而上学は徹底して俯瞰的、非時間的であり、そのため因果的な運動変化は単なる仮象に過ぎないと見做された。運動変化の否定をより具体的に示そうとしたのが彼の弟子ゼノンだった。世界のすべてが既に起こったかのように扱われ、起こったもの、起こるもの、起こるだろうものが、同じ存在として列挙併記される絵巻物というのがパルメニデスの世界である。従って、変化に関わるような、例えば「可能性」といった概念はすべて否定され、様相や時制のない世界がパルメニデスの世界となる。彼の形而上学は決して荒唐無稽ではなく、その哲学的アイデアは原子論と同じように現在まで生き残り、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)として生きている。世界のすべてが「展開された絵巻物」として捉えられ、それを全体として俯瞰したのがパルメニデスの世界である。

 ゼノンのパラドクスを知る人は多いが、それが正確に何を述べているかということになると、専門家の間でも意見が分かれ、現在でも哲学への憧れを掻き立てるに十分な主題となっていて、好奇心の格好の対象であり続けている。運動自体の分割可能性、それを表現する線分の分割可能性、表現された運動についての論証が巧みに混同されることによって、運動に関わる彼のパラドクスが生じる。運動が分割可能なのか、運動表現が分割可能なのか、論証で使われる無限概念が適切なのか、これらの問題を丁寧に解きほぐしていけば、どこにも矛盾などないというのが標準的な解答である。

 因果的でない数学を使って因果的な世界をどのように理解し、説明するかは何も問題を孕んでいないように見えながら、実は重要な問題を多く抱えていることがその後の2,000年以上にわたる知的な探求の中で次第に露呈されていくことになる。この過程は実に魅力的で、人間の好奇心を刺激し続けてきた。パルメニデス形而上学的な剛腕を振るって解決しようとしたのは「自然の数学化」と呼んでもいい問題であり、ゼノンのパラドクスによって、それが論理的な問題だけでなく、無限分割可能性を通じた「無限」の問題をも含むことが明らかになった。その試みはガリレオによって再度なされ、数学を巧みに使うことによって実行され、ニュートン古典力学としてまとめ上げることになる。自然の数学化が引き起こす問題とその解決は数学研究そのものを大いに刺激しながら、現在もまだ続いている。

 「展開された絵巻物」とは絵巻物をすべて広げた世界であり、例えば、運動がその軌跡として表現される世界であり、物理学の世界である。大観の「生々流転」は絵巻物と呼んでもいいような40mの長さをもつ絵である。私たちはその絵自体が時間的に変化すると思っておらず、その絵の内容が時間的に変化する風景だと考えている。見えているのは静止状態の絵なのだが、その絵を通して生々流転の水の流れが表現され、私たちはそれを表象している。数学や物理理論は抽象的な絵巻物自体であり、私たちの経験は絵巻物が表現する具象的な表象内容なのである。数学や物理理論がなければ、私たちは諸行無常の世界を正しく表現することができないのである。