因果的な「ならば」の否定

 「ならば」と必要条件、十分条件の関係の確認からです。P⇒Q(Pならば、Q。英語なら、If P, then Q.)は条件法(conditional)と呼ばれます。Pが真で、Qが偽のとき偽になる以外は真です。この条件法P⇒Qが真のとき、PはQの十分条件、QはPの必要条件と言われます。また、双条件法P⇔Q(biconditional)は「P⇒QかつQ⇒P」のことですが、P⇔Qが真のとき、PとQは互いに他の必要十分条件になっています。

 「Aならば、Bである」という表現自体は単純ですが、日常生活では原因-結果と前提-帰結の二つの(根本的に異なる)関係を意味しています。「ならば」が論理的、因果的の二つの意味を併せもつことは日本語だけの偶然的な特徴ではなく、英語でも「if then」は二義的に使われています。このような「ならば」の二つの意味は物理学と物理的な世界を考えてみると鮮明になります。例えば、力学は数学を使って表現されています。運動方程式は論理的な「ならば」を使って数学的に変形され,解が見つけられます。一方,そのような運動方程式によって記述される物理世界の変化は因果的な変化であり、その変化は因果的な「ならば」で表現されます。数学が物理世界を表すのに役立つ理由の一つは、私たちがこれら二つの「ならば」を巧みに操っているからです。

 自然や心理の変化に関する哲学を考える上で、上述の「ならば」は最初から重要な役割を演じてきました。ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義」の原型が生み出されました。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しないものでした。そして、変化自体を全面的に否定したのがパルメニデスです。「存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかない。」というのが彼の主張です。つまり、彼は論理的な「ならば」は認め、運動変化の「ならば」を否定したのです。こうして、運動変化の「ならば」は不変の世界にはなく、それは幻覚についての表現ということになります。このパルメニデスの無謀な主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結です。それを信じられないと思う人はパルメニデスの主張のより具体的表現であるゼノンのパラドクスに対峙し、それを解かなければならない、と言われてきました。確かにパルメニデスの主張とゼノンの主張は似ており、二人とも運動を否定します。ですから、運動に関する因果的な「ならば」もないことになります。でも、二人の否定の理由は異なっています。それゆえ、ゼノンのパラドクスを解決してもパルメニデスの主張が否定されたわけではないし、パルメニデスの主張が否定されてもゼノンのパラドクスが解決されたことにもなりません。

 ゼノンは運動を否定したのではなく、無限小(infinitesimal)概念を曖昧のまま使っていると、運動が起こりえないことになると警告したと考えることもできます。でも、パルメニデスの哲学では、変化、生成、運動は幻想に過ぎなく、学問の対象になりませんから、無限小を使うと運動が起こらないことになるという主張は、運動なるものの存在を信じている人ならばともかく、およそエレア学派のゼノンなら主張するはずがないとも言えます。

 でも、パルメニデスとゼノンの運動否定の理由は同じではなく、それがその後の展開を刺激し、微積分とその応用につながるのです。