神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(6)

 物語ではなく論証からなるパルメニデスの哲学は、どのような筋立てなのか。彼の哲学は、次のような思考と存在の関係に関する基本前提からなっている。

対象を考えることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。
対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

これら二つの前提から次の命題が得られる。

実際に存在しない対象について考えたり、語ったりすることはできない。

この命題から「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相(modality)の無視が明らかになる。そして、次の命題が導出される。

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

どのようにこれらの命題が導出されるかはここでは省き、哲学史家からは怒られるが、思い切って現代的な観点から彼の前提を見直してみよう。「存在」、「存在可能性」、「思考可能性」の間の区別を否定する点で、大変よく似ているのがブロック宇宙モデルである。パルメニデスの世界が数学的で、数学的世界には変化がないことを考えれば、数学的モデルであることがパルメニデスの前提をそのまま満たすことにまず注目したい。その数学的モデル内では彼の前提が正しいことをまず確認しよう。このモデルは物理世界を相空間(Phase Space)で捉え、それに時間軸を加えたものである。相空間に時間の次元を加えれば、絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止したままとなる。そこでは運動変化が動いている形態では存在しない。このモデル内には変化がなく、ユークリッド幾何学的世界と何ら変わらない。幾何学的世界に運動があると考えることは不自然ではない。点や線、図形は空間内を動くことができるし、そう考えた方がユークリッドの考えに合っている。対象を表示するのに使われる点や図形は動かないが、それらが数学的な対象となれば動く。これが運動変化は幻覚に過ぎないというパルメニデスの理由と考えれば、私たちもこの数学的モデルには運動変化がないことを彼と同じように認めることができる。パルメニデスの別の主張と言われている一と多の問題はモデルの世界全体が一つであり、相互につながり、全体論が成立していることから説明できる。運動はモデルの次元と深いかかわりをもっている。運動を変化しない形で捉えるために次元が使われ、運動の「動いている姿」は次元を取り去ることによって現れる。相空間の次元は粒子の数nに対し3n次元であるが、この3は時間を含まない空間であり、それゆえ、運動変化が空間内で変化する経過、動いている様態として表現されることになる。通常の空間の各次元は運動ではなく、延長に関係し、上下の軸は高さを、左右、前後の軸は距離を生み出している。そのため、運動に関わっているのは時間軸ということになる。
 過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルには一切ない。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていない。パルメニデスがこのモデルを採用したという証拠はないが、運動変化が幻覚に過ぎないという理由はこのモデルで十分説明できる。
だが、このモデルを実際に使っている物理学では変化を対象にしている。そして、このモデルを物理世界に適用して、その変化を実際に説明している。このモデルでの変化の説明は、変化を見る視点をもつ私たちの経験の導入によってなされる。例えば、4次元の世界の軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになる。つまり、時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点をもつ経験の導入によって補完される。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いている。その動きはある視点から見られた空間内の運動で、「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点と協働している。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように描写されるが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もない。しばしば時間と時制の違いが問題になるが、時間軸の還元された空間で補完される運動はマクタガートの言うA-系列とB-系列の区別に対して、いずれでの運動とも考えることができる。還元された時間軸を補完する仕方は特に決まっていない。それゆえ、日常生活ではA-系列を、物理学ではB-系列を使って補完される。補完は他の座標軸でも同じようにでき、AとBの系列に対応する区別をすることができる。物理空間と生活空間、空間と場所といった区別ができるが、混合した組み合わせはメートル法の一部に尺貫法を使うようなものになる。これを図式化すれば、次のようになるのではないか。

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+視点をもつ運動変化の経験

私たちは時間軸を往来することなどできない。左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能である。時間の場合の視点と空間の場合の視点の具体的な違いは例を通じて知るのが適切だろう。また、「視点」は自然主義とどのような関係にあるのか。この問題は座標系の導入自体が自然主義にとっては最初から問題であり、実はユークリッド幾何学での図形の位置や他の図形との関係を考える際に図形を移動させる場合に暗黙のうちに気づかれていた問題である。座標系や視点が主観的であるとすれば、それらは認識的である。だが、座標系や視点そのものがモデルや図形に主役として登場しないのも確かである。視点はあるが、それはモデルの要素ではない。視点は座標系によって間接的に与えられ、次元の増減によってはっきり表現されるのは変化だけである。こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していると解釈できることになる。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となる。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態だけでは不十分である。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸の補完のための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎない。私たちは2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかる。これは私たちが3次元を知っているからである。同じように3次元でも運動を経験することによって私たちは時間経過がわかる。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができる。つまり、運動の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができる。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するには不完全である。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければならない。運動の一部ではなく、運動の始まりから終わりまでを捉えることが運動の完全な理解に必要である。
 何かとても難解な話のようになってしまったが、以上のことが私の勝手に理解したパルメニデスの主張のアウトラインである。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(Symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになる。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なっている。どう異なるかはゼノンのパラドクスを見た上で考えよう。パルメニデスの前提が可能性を秘めた深遠な前提だとすれば、次に述べるゼノンのパラドクスが成立する前提は克服すべき障壁でしかなく、とても深遠とはいえない前提である。ゼノンのパラドクスは運動変化の否定というより、対象の分割可能性に関するパラドクスであると述べたほうが適切なのである。

 パルメニデス、ゼノンに共通するのは、エレア学派の形而上学には当然ながら運動の法則は一切なく、それゆえ、世界は永遠の相のもと、完璧に傍観者の立場から眺められ、その幾何学的な構造だけが世界として理解されることになる。運動は幻覚なので、運動の法則はない。法則がないのであるから偶然も必然もなく、変幻自在な私は世界のどこにも存在しない。既述のようなモデルで理解したとしても、やはり、自らが生きる世界としては納得いかない世界であることは確かである。

「経験と物語、あるいは因果的な経験」と「経験と構造、あるいは幾何学的な経験」についてまとめておこう。
 私たちの経験を外から俯瞰的に眺める場合も、経験する内容を内から意識する場合も、いずれの場合も何かの変化を経験していることについては共通している。経験すること自体、そして時には経験する内容も共に因果的な変化であり、その変化の最も基本的なものが運動変化である。物理学が運動変化を明らかにすることであるなら、物理学の目的は私たちの経験そのものの解明ということであり、それに異論を差し挟む余地などないだろう。だが、哲学という文脈で私たちが経験やその内容について語る際、物理学と経験の関係に関しては大変異なる関係が想定されてきた。例えば、物理学は私たちの経験を無視することによって成り立っている、と多くの人に思わせている幾つかの哲学的な思想が存在する。
 経験内容が運動変化である場合、その物理化は幾何学化からスタートした。それがターレスの果たした役割である。経験内容とは世界そのものであり、その世界の構造は幾何学的である。これがターレスの基本テーゼである。世界内の変化を直接的に操作する術はまだなく、そのためか数学化は形而上学化へと性急に転向していく。そして、それを具現したのがエレア学派のパルメニデスだった。プラトンアリストテレスも経験内容を形而上学的に昇華(簡約化、単純化)することによって、経験内容の大雑把だが、合理的な客観化を目論んだ。
 経験内容をより包括的に数学化することは、ずっと下ってガリレオの登場を待たねばならなかった。運動変化の数学的な表現は最終的にニュートンによって解析学的に与えられる。「幾何学化が構造的で、解析学化が因果的」という表現は危険な表現だが、それを敢えて使えば、運動変化の経験の数学化が解析学だったと言っても誤ってはいないだろう。少なくとも解析的表現は運動の因果的変化を連続的、逐次的に捉えようとしている。そこに余分な形而上学の介在は必要ない。
 経験の数学的表現の最初の成功が世界の構造を捉える幾何学だったとすれば、二番目の成功が運動変化の軌跡を捉える解析学だった。恐らく、経験の三番目の成功は経験内容のもつ情報で、それは確率・統計的に表現されてきた。
 運動や歴史といった時間的な変化は、建物、仕組み、システムといった持続的な構造とは異なる側面をもっている。構造と物語、システムとナラティブといった対は対立するだけと受け取られ、物語、歴史は私たちの経験そのものに根ざすものであり、一方構造はその経験内容を俯瞰的に理解するときの基本となってきたものである。

f:id:huukyou:20181024034115j:plain