神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(5)

 ターレスの定理と呼ばれる幾何学の定理を例にしながら、論証がどのように展開されるかを実際に眺めてみよう。まず、三つの命題を記しておこう。

円は直径によって二つの同じ部分に分割される。
二等辺三角形の底角は等しい。
二つの直線が交わったときの対頂角は等しい。

これらの命題が証明する必要のない自明の命題なのか、それとも証明する必要がある命題なのかは微妙な問題で、その答えは一つに決まってはいない。だが、次のターレスの定理を見れば、それが何を使って証明されるかは誰にもわかるのではないだろうか。

定理:ACが円の直径で、BがAやCとは異なる円周上の点なら、角ABCは直角である。

証明: 三角形の頂点から円の中心に線を引くことによって、二つの三角形ができる。いずれも円の半径を斜辺とすることから、二等辺三角形であり、それゆえ、それぞれの底角は等しい(前の命題を使っている)。それぞれの等しい底角をa、bとすると、a + a + b+ b = 180なので、 a + b = 90となる(ここでは算術の定理が使われている)。

 このような証明は経験的、直観的にわかることと論証によってわかることの違いを示すだけでなく、論証が因果的な変化を使ったものではなく、論理的な規則を使ったものであることを示している。物語の因果的展開とは異なる、証明の論理的展開が幾何学の本質であり、それをターレスが最初に具体化したのである。論証は前提と結論の間の論理的な展開であり、それゆえ、何を前提にするかが大切な事柄になってくる。誰が見ても疑うことができない、自明の前提から論証がスタートし、そこから結論が得られるなら、論証は大変優れた知識の獲得方法ということになる。だが、何が前提として相応しいかは最初から決まっている訳ではない。因果的な原因とは違って、論理的な前提は選ばれなければならないのである。この大問題は後でじっくり考えることにしよう。
 経験的な測量術、因果的な変化の理解、日常的な知識の特徴と推論、論証、論理的な変化、探求する知識を区別する基本にあるのは、二つの「ならば」である。論理的な「ならば」と因果的な「ならば」とでも表現できる違いである。「ならば」は他の接続語句と比べても格段に重要である。演算と解釈できる代数的な接続詞に比べると、「ならば」は代数的であると割り切ることを躊躇させる。論理的に重要な接続詞は結合子と呼ばれるが、それらは「また(and)」、「あるいは(or)」、「でない(not)」と「ならば(ifthen)」であり、論理学ではそれぞれ連言、選言、否定、条件法と呼ばれている。最初の三つは代数的な演算と同じであることが直観的にも明らかである。「ならば」は世界の出来事を原因と結果として結びつけ、心の中の命題を前提と結論として結びつける。これら異なる二つが同じ「ならば」に託された役割のようである。一つの「ならば」によって二つの異なる役割を巧みに扱うことができるのは、それを使いこなす私たち人間の独特な能力なのだろう。
「ならば」と必要条件、十分条件の関係の復習から始めよう。P⇒Q(Pならば、Q。英語なら、If P, then Q.)は条件法(conditional)と呼ばれ、PとQの真理関数である。その真理値は、Pが真でQが偽のとき偽になる以外は真である。この条件法P⇒Qが真のとき、PはQの十分条件、QはPの必要条件と言われる。これは条件法が真のとき、前件が真なら必ず後件も真になり、後件が偽なら必ず前件も偽になるからである。
また、双条件法P⇔Q(biconditional)は「P⇒QかつQ⇒P」のことであるが、P⇔Qが真のとき、PとQは互いに他の必要十分条件になっている。
「Aならば、Bである」という表現自体は単純であるが、原因-結果と前提-帰結の二つの(根本的に異なる)関係を二重に意味している。それを次の例で実感してほしい。

(1)x + y = zならば、2z = x + y + zである。
(2)太郎が怒るならば、次郎が泣く。

文(1)の「ならば」は論理的な「ならば」であり、前提x + y = zと帰結2z = x + y + zの含意関係を主張している。実際、変数x、y、zが自然数や実数であれば(1)は正しい文であり、含意関係が成立している。それに対して、文(2)の「ならば」は因果的な「ならば」で、太郎の怒るという心理状態と次郎の泣くという行為の間に因果的な関係があることを主張している。二つの「ならば」の違いは極めて重要である。例えば、(1)の前提と帰結はそれらがいつ成立するかは考慮されないが、(2)の二つの状態は時間的な制約を受けている。太郎が先に怒り、次に次郎が泣くのでなければ、因果関係は成立していない。日常的な表現である「ならば」が論理的、因果的の二つの意味を併せもつことは日本語だけの偶然的な特徴ではない。英語でも「if then」は二義的に使われている。
 このような「ならば」の二つの意味は物理学と物理的な世界を考えてみると鮮明になる。例えば、力学は数学を使って表現されている。運動方程式は論理的な「ならば」を使って数学的に変形され,解が見つけられる。一方,そのような運動方程式によって記述される物理世界の変化は因果的な変化であり、その変化は因果的な「ならば」で表現される。数学が物理世界を表すのに役立つ理由の一つは、私たちがこれら二つの「ならば」を巧みに利用し,相互の関係をつけているからである。だが、概念上、二つの「ならば」は全く異なったものである。
パルメニデス哲学:不変性と次元>
 ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義」の原型が生み出された。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しないものだった。変化を変化しない普遍のものによって説明すること自体は疑われない中で、変化自体を全面的に否定する哲学者が現われた。それがパルメニデスである。存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかない。この意表を突く主張を文字通りに信じ切れる人はいないだろう。彼の主張を心底信じるには生命の進化や社会の歴史だけでなく、自分の誕生や死を含んだ生活世界そのものを否定しなければならないからである。このパルメニデスの無謀とも思える主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結である。それを信じられないと思う人はパルメニデスの主張のより具体的表現であるゼノンのパラドクスに対峙し、それを解かなければならない、と言われてきた。確かにパルメニデスの主張とゼノンの主張は似ており、二人とも運動を否定する。だが、二人の否定の理由は異なっている。それゆえ、ゼノンのパラドクスを解決してもパルメニデスの主張が否定されたわけではないし、パルメニデスの主張が否定されてもゼノンのパラドクスが解決されたことにもならない。ゼノンのパラドクスを分割自体が矛盾を必ず導くものと考えれば、パルメニデスの主張の別表現と考えることができるが、特別の分割について矛盾が出るというのでは、パルメニデスの擁護にはならない。ここでの論述は、パルメニデスの哲学を現代風に理解する態度がもつ危険をもっていると共に、パルメニデスとゼノンの関係についての再考の契機になると思われる(ファン デル ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden, ‘Zenon und die Grundlagenkrise der griechischen Mathematik’,Mathematische Annalen, Bd. 117, 1940.)、タンヌリ(P. Tannery, ‘Le Concept Scientifique du continu: Zenon d'Elee et Georg Cantor’, Revue Philosophique de la France et de l'Etranger, 20: 385, 1885.))
 タンヌリによると、ゼノンは運動を否定しようとしたのではなく、むしろ、無限小概念を曖昧のまま使っていると、運動が起こりえないということになると警告したということになる。だが、パルメニデスの哲学では、変化・生成・運動は幻想に過ぎなく、学問の対象にならないとされているので、無限小を使うと運動が起こらないことになるという主張は、運動なるものの存在を信じている人ならばともかく、およそエレア学派のゼノンなら主張するはずがない。これがファン・デル・ヴェルデンの意見である。だが、パルメニデスとゼノンの運動否定の理由は同じではない、これが私の見解である。