知覚、気づき、そして内観
経験が科学に対してもつ重要な役割がいままでの叙述から明瞭になったとは到底言えない。そこで、私たちが日常生活、科学研究を問わずに行っている知覚経験を取り上げ、知覚経験とはどのようなものかを分析してみよう。例えば、「リンゴを見て、リンゴが赤いことに気づく」こと、そして一般的には、「What is it like to have a perceptual experience?(ある知覚経験をもつとはどのようなことか)」を考えてみよう。このような問いへの答は経験内容への気づきや内観の再解釈という形でタイ(Michael Tye)やドレツキ(Fred Dretske)の自然主義的な心の研究に見出すことができる。
(表象主義の基本的考えとドレツキの知覚経験の内観)
自然主義的な表象主義は知覚経験とその内容である思考と感覚質の説明を目標とするが、その基本テーゼは次のように表現できる。
すべての心的事実は表象的事実である。すべての表象的事実は情報的な事実である。
このテーゼをある人Xの知覚経験に適用すると、
Xは性質Fを表象する ⇔ Xは性質Fを表示する(indicates)機能をもっている
となる。
表象される内容は現象的性質と呼ばれ、実在の要素の性質と解釈される。知覚器官は情報を個体に供給する生物的な機能をもっている。これら生物的な表示機能は自然的表象であり、生得的な場合はシステム的表象、学習した場合は獲得的表象であり、それぞれ系統発生的(phylogenetic)、個体発生的(ontogenetic)である。また、心的表象には二種類ある。一つは感覚質の経験で、非概念的表象であり、システム的である。他は思考的経験で、概念的表象であり、獲得されたものである。
表象、表現、表示は観察、測定の結果であり、温度計の温度表示のような数的な表示、貨幣による価格表示、言語的な表現等多岐に渡っているが、ここでは知覚経験だけを考えることにしよう。温度計が信頼できる知識に基づいてつくられ、その表示が信頼できる情報を伝えているように、私たちの知覚表象は正常に作動している限り、信頼できる情報を私たちに伝えている。この類比は表示が「何か」の表示であり、「表示する」という事態そのものより表示の内容がはるかに重要である点でも共通している。温度計を使う者はそれがどのような過程を通じて温度を表示するかに通常関心をもたない。道具としての温度計はその製作に携わる者以外にはその機能だけが注目され、実際の使用の場面では表示内容だけが重要な情報として扱われる。これは私たちの知覚表象でも同じである。眼科医でない私には眼の構造は詳しくわからない。しかし、それで私が不都合かといえば否であり、私には見えているものが生活の中で重要な情報となっている。この見えているものが温度計の温度表示と同じ地位にあるものである。
上のような比較はある点で表象主義の真意を伝えてくれるが、この比較はどこまでも平行に進むわけではない。私たちは温度計と知覚が違うという直観も併せもっている。温度計の表示と知覚経験の違う面を明らかにすることが表象主義を一層明瞭にすることになる。知覚表象と温度表示の違いは何か。私たちは自分の知覚経験が何かに気づくことができる。だが、温度計は温度表示に気づかない。温度表示を表示する機能をもっていないからである。私たちは自分の知覚したものが何か問われれば、簡単に答えることができる。なぜ答えることができるかといえば、内観できるからである。
内観とは心の内側を観ることであるというのが伝統的見解である。これに反撥するドレツキは内観に関するロックの見解を一貫して拒否する。彼の主張は内観の存在ではなく、内観内容の認識論的優位性にある。つまり、私がある特定の心的状態にあることに気づくとき、私が気づいているのはその状態の志向的内容(=表象内容)であり、それはその内容を構成する特徴であり、私が信念を生み出す心的状態自体の特徴ではない。私はものの思考や経験が表象する物理的な特徴を知覚することによって私の思考や経験が心的特徴をもつことを学習する。また、このことは私がもつ心的状態によって表象される特徴が、その状態に内観的に気づくことに特別の権威(私だけが直接に気づくことができる特権)を与えてくれる。
ドレツキによれば、青の経験は概念的に青の経験として表象されるが、それは経験の感覚的表象によってではなく、見ている青い対象の感覚的表象によってなされる。私にとってある経験が青の経験であるということを内観することは、その経験が青い対象を青として表象していることと、経験が青の経験でないなら対象が青ではないだろうという正当化された信念の二つだけを基礎にして、推論であるかのように、その経験が青の経験であることを表象することである。より一般的には、
私にとってeがFであることを内観することは、私にとって(1)eがFであることを表象することであり、その表象は(2)私がeの志向的対象がPであることを見ることに基づき、(c)eがFでないなら、その対象はPではないだろうという正当化された信念が介在することによってなされる。
脳がなければ赤の経験をもてないが、脳のどこにも赤い性質は存在しない。この文は一見すると矛盾しているように見えるが、ドレツキはこれらがそうではないことを自らの理論、つまり「内観=転換された知覚」理論で示そうとする。彼の主張は「内観は転換された知覚である」というテーゼにまとめられている。感覚経験は対象を表象する(感覚モード)。信念は対象についての事実を表象する(概念モード)。この感覚モードから概念モードへの転換を彼は転換知覚と呼ぶ。転換には、知覚者が知覚の対象とその知識の結びつきを知っているという仮定が必要で、これが結合信念(connecting belief)である。内観はメタ表象であるが、それは転換された知覚の形をとる。転換知覚説によって内部感覚説では与えることのできない内観の現象学は転換知覚の束に還元される。
(経験の透明性)
経験という語の使用には注意が必要である。次の文を比べてみよう。
経験は赤くない。
経験は赤い。
二つの文は一方が他方の否定になっているから、いずれかが誤っているのだろうか。前者の経験が出来事としての経験を、後者の経験が経験内容を指示していると考えれば、両方とも正しい場合を想像できる。赤いものを見たという経験そのものは赤くないが、その経験の内容である赤いものは赤い。出来事としての経験は経験できないという意味で、経験は透明である。一方、赤信号という具体的な経験内容は透明ではなく、確かに赤い。経験の透明性の参考例としてヒュームの考えを思い出してみよう。
私たちは日常の現象を原因や結果の系列として、また太陽や月の変化は周期的な現象として理解している。論理的な関係のない二つの観念が原因や結果として結合されることによって事実が経験されている。そして、私たちは経験を通じてのみ特定の因果関係を見出すことができる。それゆえ、私たちの因果的な経験を分析することによって自然を理解することができる。この分析から、ヒュームは原因と結果についての私たちの知識は過去の経験からの一般化の帰結であると考える。彼の分析結果は以下のようにまとめることができる。
タイプAの出来事はタイプBの出来事に時間的に先行する。
私たちの経験の中ではタイプAの出来事はタイプBの出来事に常に結びついている。
タイプAの出来事はタイプBの出来事と時間的、空間的に隣接している。
タイプAの出来事はタイプBの出来事がその後に起こるだろうという期待をもたらす。
これらがヒュームの因果性の分析であるが、これで因果的関係は表現し尽くされているのだろうか。ボールAがボールBに衝突したとき、私たちはAがBを動かし、Aが衝突した結果としてBは動かなければならなかったと考え、そこからAの動きとBの動きの間に必然的な結びつきがあったと考えるのではないか。しかし、ヒュームは私たちにはこの必然的な結びつきは理解できないことだと主張する。この主張の根拠は彼の経験論にある。私たちはAの動きやBの動きを経験できるが、それら動きの間にある必然的な結びつきは経験しない。それゆえ、自然に必然的な結びつきがあると信じる何の理由もない。私たちが見るものすべては隣接し合う出来事でしかない。出来事の間の必然的な関係を見ることは決してない。しかし、隣接する出来事をいつも見ていると、それが未来にも引き続いて起こり、出来事の間の結びつきを期待する習慣がつくられていく。
必然的な関係と同じように、経験も知覚できないものである。だが、経験を概念的に指示することはできる。経験内容が概念的に再構成されるには経験が完了した後でないとできない。今経験していることに気づくことは経験内容のいずれかに気づくことである。自己が知覚できないように経験を知覚できないが、自己を反省できるように経験を反省することはできる。その際、自己も経験も言語的に指示対象となっており、他の言語表現との関係で表現される。経験は言語化されて経験できるが、言語化された経験は生の経験ではなく調理されたものである。
(注意と気づき)
私たちは対象を注意して見なければ、その特徴に気づかない場合が多い。知識がなければ気づかないように、注意を払わなければ気づかない(し、それゆえ、見えない)。だが、知識が気づきの原因ではないように、注意も気づきの原因ではない。赤信号に気づくのは、実際に信号が赤になったからであり、注意が原因で気づいたのではない。注意は運転という行為の一部としての赤信号への気づきの必要条件の一つではあるが、動機や欲求と違って、ある行為の原因ではない。だが、「注意したので、気づいた」という表現は因果関係を述べていると反論したくなる。注意は動機と違って、そのメカニズムが表面に出てくるものである。私たちはメカニズムをもとに注意を捉えている。注意する内容(つまり、信号が黄色から赤色になること)が赤信号に気づくことの原因のはずであるが、それは転化されて注意そのものが原因であるかのように考えられているところに上記の混同の源がありそうである。
「注意したので、気づいた」は前件も後件もメカニズムやプロセスに言及しているのであれば、有意味であるが、注意がメカニズムを、気づいたのが内容であれば、カテゴリーミステイクになってしまうだろう。経験に気づくのではなく、経験の内容(=現象的性質=表象的内容)に気づくのであり、それは経験の透明性によって保証される。
経験内容が表象内容であるという表象主義は、表象が内的なスクリーンに映し出される映像ではなく、現象的性質であることを主張するが、表象は何かの表象であり、その何かはセンサーの値であり、その値を担うものが現象的性質であると考える。そのため、これを経験のセンサー説と言い換えてもいいだろう。気づくのは観測者であり、センサーではない。気づいた内容はセンサーが感知したものであり、測った値でしかないが、「気づく」の主語はセンサーではない。
経験が透明であることと経験が気づかれないことが同じような意味で使われているが、もしそうなら、経験の不透明性は経験に気づく可能性を示唆している。例えば、「虎を見ている」ことに気づくとき、その気づき方は異なっている。
虎を見ているのは私だ。
虎を見ているのは今だ。
私に虎が迫ってくる。
私の身は危険だ。
これらの気づきの違いは何に起因するのか。経験の内容とそれに気づくことの違いは上の例からも明らかなように、「私」や「今」といった指標詞の存在にある。(科学主義的な意味で)表象内容が指標詞を含まないとしても、その気づきは指標詞を伴っている。これが気づきの感じそのものをつくりだす重要な役割をもっている。表象内容はセンサーが感じ取るものだが、そのこと自体をセンサーは気づかない。(これと同じ意味で、「理解しない」と言われるのはサール(Searle)の中国語の部屋の論証に登場するコンピュータである。)それはセンサーである限りのセンサーは気づく必要がないからである。私たちの知覚経験はセンサーであると同時に、それによって得られた情報を別の事柄に関連させ、利用するようになっている。
経験が透明なのは、経験がセンサーのレベルで考えられる場合だけである。気づきによって始まる行動の場面では経験は透明ではなくなる。虎が目の前に現れたとき、それに気づかないと殺されてしまう。気づいたものだけでなく、気づいたこと(=出来事としての経験)や気づいた人がわからなければならない。
(「私」と指標詞)
センサーがその内容だけでなく、私に帰属することをどのように表現したらよいのか。トークンとしての表象内容に「私」や「これ」や「今」がどのように付着するかが明らかにできれば、ある経験をすることがどのようなものかが相当明らかになるだろう。現象的性質をもつ経験内容にこのような指標詞がどのように関わるかが問題である。
自分のセンサーとその値を経験することと、単なるセンサーとその値の読み取りとの違いを表現する役割を指標詞はもっている。何かを経験した事実は単なる事実と違っているが、その違いを表現するには指標詞が必要になってくる。内観に経験していることの自覚が求められる場合、経験している事柄だけでは足りず、その事柄が正に経験しているものであることが表示されなければならないが、それは経験している事実だけでは表現できない。内観に期待されている役割は経験している、経験していたという内観である。これは指標詞の巧みな挿入によってなされる。注意して知覚した場合の同時的な気づきは、事実と経験が重なり、「これ」といった表現が登場するくらいで、指標詞が使われる余地は少ない。気づきが時間的にずれたとき、「あれだった」といった表現に見られるように指標詞の役割は増してくる。そして、この挿入は表象内容ではなく、表象そのものの付随事項として挿入される。経験の透明性を保証しながら、そこに指標的な名札がかすかにつくのである。指標詞は存在をつくりださない。存在するものを表わすだけである。そのことによって経験の一回性が後で経験できるようになる。観測者、観測場所、観測時間といったものを文の一部に入れることによって、気づいた内容だけでなく、気づきの様態も表現される。
(経験の中から)
表象も経験であり、その経験が透明であれば、表象も透明であり、表象への気づきはないだろう。表象は透明にその内容を指示する。指示されるのは知覚されている対象や事実である。この透明さは指標詞の直接指示的な性格に端的に表われている。しかし、一旦指標詞を含む言語が表現に使われ出すと事態は豹変する。知覚される対象の「これ」は他の言語表現で容易に置き換えることができる。その置き換えによって表象経験のユニークさは失われる。経験の一般的な説明はできるが、特定の経験、いま経験しているという意識は失われる。
表象が透明であること、何かの表象であることから、表象の内容は言語表現をとる場合にはまず「これ」、「あれ」といった指標詞で表現される対象である。この透明な直接指示性は知識という点からは仮のものであり、後に一般名詞からなる不透明な文の集まりによって置き換えられるものである。
しかし、「この経験」という指標的表現は置き換えられずに残すこともできる。表現を残すことができても、その経験の内容は一般的な表現からなっている。経験の透明性は一般名詞の普遍的な適用性から来るのであり、これを保証しながら、経験が存在すること、経験をもつことは消去しないで残すことができる。言語表現に頼る私たちにとって、これが経験の意識や経験の内観という表現を支えることになる。
注意を含んだ知覚作用によって対象が知覚される。知覚されることは指標詞に負うところが大きい。注意は気づきを伴った指示によって知覚レベルで遂行される。対象の直接的な指示はその対象に気づいていることの証拠であり、それは気づきから言語表現に移行する。「これ」といった指標詞は注意、気づき、その表現が一緒になった形で使われる。この気づきは内観と重なっている。だが、内観はさらに「私が…に気づいている」という文の形をとる場合が多い。その点で内観は指標詞だけでなく、指標詞を含んだ文で表現されるという意味で、言語に不可避的に結びついている。内観は十分に配慮された気づきになっている。
「これ」と「私」は気づきと内観に象徴的に現われる言語表現である。注意なしに知覚の対象を認知することはないが、これは知覚そのものが既に気づきを含んでいることを示しているし、気づきのない知覚が通常の知覚経験では無意味であることの説明にもなっている。注意なしには知覚内容の言語表現は覚束ない。内観にはこれと違って「見ているのは私だ」といった気づきがある。危険を察知するとっさの気づきと違った、落ち着いた、ゆっくりした気づきがある。だが、それは程度の差に過ぎないのかもしれない。
経験と経験的知識は違う。経験を通じて生み出される知識は経験の一部を測り、それを一般化した結果である。その結果を経験に適用しながら、私たちは生活の中で経験的知識を使って経験を脚色しながら理解し、それを利用してきた。経験が何であり、どのようであるかを経験的知識を使うことによって理解してきた。経験の中の対象や出来事を指標詞を使って固定化すること、さらには「この経験」という表現で経験を固定化することは経験をより広い文脈で再利用するために必要なことである。だが、指標詞的な表現は知覚像を概念化する一歩であり、指標詞を使うことによって知覚像は対象に変わってしまう。最初の概念への転換である。この概念、つまり、「この本」は赤い表紙が色褪せてもやはり「この本」のままである。知覚像の変化と「この本」の不変性は知覚と知識の転換の証になっている。