赤い実の赤(6)

 生理的過程と心理的過程が気づきによって繋がれ、二つの過程が緩く結ばれていることから心理過程における自由の余地が生まれてくる。まずは二つの過程が結ばれていること、次はその結びつきがいい加減で付随的であること、さらに物語的でない生理過程が知識の展開として存在すること、自由とは因果的にではなく論理的に自由であるということ、色が存在すると同じように自由は存在すること、これらを一貫して説明できると自由と決定の両立主義が主張できることになる。
 気づくことの機能の重要な一つに対象の保存がある。猫がいると気づき、猫が机の後ろに隠れても、猫がそこにいると気づいていることがしばしばある。猫は見えていないが机の背後にいることに気づいているのである。それは知覚経験というより、知覚経験と知識と推論が入り混じったものであるが、心理的な様態としては気づいているのである。猫は机の後ろから私を覗っていると確かに私は気づいている。それは過去の把持でもなければ、推論の結果でもない。猫の存在に気づいたのと同じように隠れた猫の存在に私は気づいているのである。
 観測していないと存在しない、誰も聞かない音はない、誰も見ない色はない、といった主張と気づきはどのような関係になるのだろうか。眼をつぶっても眼前の猫への気づきは変わらない。時々猫はどこかに消えてしまうかもしれないが…その際は猫がいなくなったことに気づくのだが…ものがあることに知覚によって気づき、知覚情報が途絶えても気づきは消えず、ものは知覚を離れても同じところにあることに気づいている、このような状態を私たちは生活世界で始終経験している。ないものに気づいている状態を私たちは暗黙の裡に知っている。気づきの発端、気づきの持続、気づきの記憶、等々気づきは多様な現象をもって存在している。
 気づきの持続は何に気づくかによって変わってくる。そのためか、気づきは認識にとって重要ではないと見做されてきた。量子力学の観測も、森の木の倒れる音も習慣的な気づきに合致しないと思われてきた。
 気づきは何かが存在すると気づくが、それが誤っていても一向に構わない。意識すること、認識することと違うのは内容に関しては無頓着で、正確に内容を含むものではないと認められているからである。単に気づくがその内容が正しいなどという保証はないと認められているからである。
 経験が透明だとすると、気づきは気づかれないのか?気づきは気づいているから、気づきという経験として経験されている。気づきは意識されている。つまり、経験は透明でなく気づくことによって経験であると気づかれている。気づきの生理的過程は気づけないが、何に気づいているかはわかる。気づきは外の世界の変化に向けられており、気づきの生理的過程に気づくのではない。生理的過程は気づかない、あるいは気づかれないように工夫されている。気づきは半ば不透明だが、それは外部世界の変化を気づかせるためで、心の内部状態ではない。

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