「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(2)

 かつて二重真理説と呼ばれる宗教と科学の知識に関する調停案があったが、総じて不評だった。中世以来、教会は科学的な知識と対立してきたが、それはある意味で素直で正直な対応だった。異端審問や魔女狩りがあったとはいえ、真っ向から議論する点で何が問題なのかがはっきりしていた。これが仏教では曖昧模糊としたままで、問題さえ生まれない。
 聖書の内容が非常識であるほど常識とは両立せず、それゆえ論争にもならない。だが、仏教の教義はそれ程非常識ではない。因果連関、心の不安、欲望など常識と重なる部分では科学的常識と向き合い、何がしかの対応をしなければならない。常識は科学的知見に大きく左右されるが、仏教の教義の多くがその常識に基づいている。

仏教の教義
 仏教の根本教義は縁起説。当初は漠然としていた縁起説が次第に整備されていき、完成したのが十二の項目からなる十二支縁起(十二因縁)の説である。十二の項目とは、根源的な無知(無明)、生活行為(行)、認識作用(識)、心と物(名色)、六つの感覚機能(六処)、対象との接触(触)、感受(受)、本能的な欲望(渇愛)、執着(取)、生存(有)、誕生(生)、老いと死(老死)である。
 伝統的な解釈によれば、縁起は釈迦が菩提樹の下で悟りを得たとき、禅定の中で観察したもので、いわば、釈迦が苦しみを理解するために行った考察である。これに対し、縁起説を他人のためにわかりやすく説き示したのが四諦、八正道である。四諦とは「四つの真理」のことで、しばしば「四つの聖なる真理」と言われる。縁起説と同じく、これも初めから明瞭に説かれていたわけではないが、次の四つに形式化された。

1苦についての聖なる真理(苦聖諦)
2苦の起因についての聖なる真理(苦集諦)
3苦の止滅についての聖なる真理(苦滅諦)
4苦の止滅にいたる道についての聖なる真理(苦滅道諦)

 「八正道」あるいは「八聖道」は、苦しみの止滅にいたる道を具体的に説いたもので、八つの正しい生活法、実践法である。八つとは正しい見解(正見)、正しい意志(正思)、正しいことば(正語)、正しい行い(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい意識(正念)、正しい精神統一(正定)である。
 また、釈迦の教えを簡略にまとめたものとして、無常・苦・無我が説かれる。これらは「現象世界の三つの特徴」と呼ばれる。私たちの生活世界をどのようにみるかという問いに対する釈迦の解答である。漢訳経典では、三特相を諸行無常一切皆苦諸法無我と訳す。これに涅槃寂静を加えて、四法印とする。また、諸行無常諸法無我涅槃寂静の三句を「三法印」と呼ぶ。「諸行無常」はよく知られている。「諸行」とは現象するすべてのもののことである。現象するものは、すべて生成消滅し、永遠不変ではありえないと主張する。「一切皆苦」とは、すべてのものが苦しみということ。すなわち、あらゆるものは楽・苦・不苦不楽の三種に分けられるが、楽も壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れないので苦となるから、苦ではないものは何もない。したがって、「一切皆苦」と主張される。
 「諸法無我」は、仏教の人間観、世界観と関わっている。仏教は無我説に立つが、その思想内容は歴史的に変遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈にも変化がみられる。無我説の始まりは、最古の経典の「執着するな、我がものという観念を捨てよ」という教えにある。初期の無我説は「我は存在しない」ことを説くのではない。倫理主体としての真の自我の確立は積極的に求められていた。無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まる。当初の「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれた。したがって、無我(我がない)説というよりは非我(我ではない)説だった。
 ところで、現象するすべてのものは、なんらかの原因、条件に依存することによって成立しているという縁起の観点からすれば、それ自身独立で不変な存在はありえない。人間も、この縁起説の立場から理解された。つまり、人間あるいは生物とは、肉体(色)と感受(受)・表象(想)・意志(行)・認識(識)の四つの精神作用、あわせて五つのものの集り(五蘊)によって成り立っている。ここには、現象の背後に実体的な存在を認めない唯名論的な見方が顕著に現れている。一方、ウパニシャッドの哲人たちは、宇宙原理ブラフマン(梵)と個体原理アートマン(我)という現象の雑多な相の背後に働く実体的な原理を立て、その同一性の知を追求していた。原始仏教ウパニシャッドの立場と鋭く対立するのである。
*縁起あるいは因果連関を正確に定義しようとすると、一体どうなるのだろうか。インドに限らず、「因果性」は未だに常識概念でしかなく、厄介この上ないものである。だから、科学は因果概念を避けることで対処してきた。

部派仏教ーーアビダルマ哲学
 釈迦の入滅後100年頃、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂。その後さらに分裂が進み、各部派は自派の教理に基づいて聖典を編纂し直し、独自の解釈を立てて論書を生み出した。それらがアビダルマ。そして、それを集めたものが論蔵で、ここに経蔵、律蔵とあわせて三蔵が成立した。アビダルマとは、「釈迦の教え(ダルマ)に対する(アビ)研究」である。アビダルマの論師たちは、釈迦によって教え説かれたダルマを吟味することが煩悩を鎮める唯一の方法と考えた。彼らは、教理を体系化し、須弥山説といわれる宇宙観を含む壮大な教理体系を築き上げた。当時のインドの思想界はアカデミックで、宇宙論に対する強い関心があった。
 諸部派のうち、特に有力であったのが説一切有部である。この部派は、カニシカ王(c.132-152年在位)の庇護を受けて栄え、多くのアビダルマ文献が生み出された。その代表は『阿毘達磨大毘婆沙論』(あびだつまだいびばしゃろん)で、古代インドの大百科全書である。アビダルマ文献のうち最も有名なものは、世親(4、5世紀頃)の『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)である。これは、大部な『婆沙論』の内容を批判的に要約したもので、日本で大いに尊重された。
 「説一切有部」は、この世界を成り立たせている一切のもの(ダルマ)が過去、現在、未来の三世にわたって実在すると主張する。諸行無常と矛盾するようであるが、彼らはむしろ実在するものがなければ、諸行無常は成り立たないと考えた。諸々のものは集まって現象してくる。それは現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する(刹那滅)。しかし、それぞれのものは、未来から現在をへて過去にいたって常に存在し続ける(三世実有・法体恒有)と考える。
 原始経典には、世界の成立ちを説明する教えとして五蘊・十二処・十八界というダルマの枠組があった。「十二処」とは六つの認識器官「眼・耳・鼻・舌・皮膚・心(眼耳鼻舌身意)」と、それらに対応する六つの対象「いろかたち・音声・におい・味・感触・考えられるもの(色聲香味触法)」によって世界の成立ちを説明するものである。「十八界」は、これに六つの認識「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」を加えたもの。
 説一切有部は、この十二処・十八界説を基本として理論的な整合性を追求し、体系を再構成した。そして完成されたのが「五位七十五法」という七十五のダルマを五類に分ける体系である。これによって物質的、精神的な世界のすべてが説明された。
 五類とは、「物質(色)・心(心)・心作用(心所)・物質でも心でもない関係、属性、能力など(心不相応行)・空間や涅槃など形成されることなく存在するもの(無為)」である。第五の「無為(むい)」に対し、前の四つのダルマは「有為(うい)」で形成されるものである。物質には十一、心は一、心作用には四十六、物質でも心でもないものには十四、形成されないものには三のダルマが立てられる。物質は原子論によって説明される。
ギリシャも含め、デカルト以前の哲学には説一切有部の整合的な心の働きの分類はなく、知識より行為への関心の高さがわかる。ここでは部派仏教の宇宙論におけるものと時間について西欧哲学の言葉遣いで述べ直してみよう。

<ブロック宇宙> 
 ブロック宇宙モデルは時空のすべての点に対して同等の存在論的な身分を与えるモデルで、ダイナミックに変化する時間像は物理的な実在とは独立に人間の感覚と意識がつくり出したイメージに過ぎないと考えます。時間の流れや持続は人間の心が視点をもつことから生まれる、いわば第2性質に過ぎなく、実在するのは時空連続体だけです。では、ブロック宇宙に時制はないのでしょうか。ノートに平面座標を書き、そこに鉛筆で位置の変化を時間軸に従って記すとき、私たちの経験する時間の一部を使っているのではないでしょうか。確かに、任意の時点を「現在」にし、時間単位の長さを自由に選ぶという二点で実際に経験される時間とは違いますが、鉛筆の運動の表現に「動く時間」が暗黙の内に使われているのではないでしょうか。でも、その使われ方は認識とその表現レベルのもので、鉛筆の動きそのものや動き方がどうであれ、記された筆跡に違いはありません。描き方は様々でも、描かれた結果は同じです。そして、ブロック宇宙は描かれた結果だけからなっています。それゆえ、「動く時間」はブロック宇宙には存在せず、したがって、時制もありません。

<原子論>
 原子論の発案者はレウキッポスとその弟子デモクリトスデモクリトスの主張によれば、原子は不可分で、その部分の間に差はなく、原子の中は充満している。実在するものが複数である以外はパルメニデスの考えと一致し、アナクサゴラスやエンペドクレスのように多元論であるが、質的ではなく、量的な多元論である。各原子は一様、均質、無色、無味、そして不可分である。原子はサイズ、形、重さをもち、動くことができる。(つまり、ロック風には原子は第一性質をもつが、第二性質はもっていない。あるいは、原子は不変の本質的な性質と可変の位置や速さという状態をもっている。この点で、古典物理学の粒子の固有の性質と状態に似ている。)
デモクリトスの原子論的な宇宙では原子が真空の中を動き、互いに結びつき、複合的な対象をつくる。これら複合的なものは二次的性質をもつが、それらは構成要素である原子の性質に還元できる。したがって、原子の複合は新しい性質の生成に見えるが、それらは原子に還元でき、実在的なものではない。実在するのは原子だけである。この考えは全く還元論的、機械論的である。原子の運動を説明するのに他の要因を必要としない。また、ここでは因果的な決定論も成立している。個々の原子は自由に運動するのではなく、運動はすべて決まっている。原子の複合体も自由ではなく、構成要素である原子の運動の総和に過ぎない。すべての説明は原子からなされるという意味で構成的である。このような意味で原子からなる世界は決定論的で、そこには起こる現象についての新しい驚きは何もない。原子論は後で見るニュートン的な世界観にある点で類似しているが、量子力学によってもたらされた(原子に関する)非決定論的世界観とは大きく異なっている。
だが、古代の原子論には近代的な物理学の考え、ニュートン力学とも、量子力学とも違っている点がある。それは何か。原子論のそもそもの動機は物理学的な探求からではなく、パルメニデスとゼノンの形而上学的主張に由来する。原子は物理学的要請からではなく、実在は一つで不可分というエレア派の見解に対処するための要請として主張された。では、どのような意味でデモクリトスの原子は不可分なのか。デモクリトスの答えは次のいずれかだろう。

1 原子を分割することは物理的に不可能である。
2 原子を分割することは論理的あるいは概念的に不可能である。

1がデモクリトスの立場なら、部分に分けることが物理的に可能ではないにしても、原子の部分について語ることは意味があるだろう。だが、2の立場なら、原子の分割は技術的ではなく、概念的な不合理であり、全く意味をもっていないことになる。では、デモクリトスはいずれの立場なのか。これは研究者の間でも意見が分かれているが、2の形而上学的な意味に軍配を上げる人が多いだろう。
 ギリシャの自然哲学の中で最も卓越した科学的なアイデアが原子論である。だが、それが同時に優れた形而上学的なアイデアではないと判定されたことはプラトンアリストテレスの哲学のためである。

*ここまで読んでこられた読者諸氏に改めて「「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか」という問いを考えてみてほしい。二重真理説などでは何の解答も得られない筈である。