実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(1)

 中世の関心は実在と言語表現の間のギャップ、近代の関心は感覚経験と言語表現のギャップ、それらの間の関係の類似性は驚くほどのもので、「もの-性質(言明あるいは知識)-感覚」の間に何があるのかは相変わらず謎と闇だけが広がり、今でも私たちの好奇心を駆り立てている。そこで、これまでの議論をまとめることにしよう。

 「罪を憎んで、人を憎まず」は、人が罪を犯すにはそれなりの理由や事情があるので、犯した罪は憎むべきだが、その人そのものを憎むべきではないと主張する。だが、大抵の被害者とその家族は罪だけ憎み、犯人を憎まないといった芸当は至難の業だと反論する。
 孔子の「孔叢子(くぞうし)」(後世の偽作)のなかの刑論に「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所で訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが、人そのものは憎まなかったの意味)」とあり、そこからタイトルの諺がきている。弟子が孔子に「司法官として罪を裁く際にどうすれば良いか」と尋ね、孔子が「罪を犯すには理由、原因があったはずで、それに目を向けるべきである。罪そのものや罪人にのみとらわれてはならない」と答えた。つまり、この諺の本来の意味は「司法官として裁く側」の心構えを表していて、被害を受けた人や家族が加害者に対して「人を憎まず」と言っているのではない。だが、このような釈明は、司法官と被害者側は同じ態度をとるべきだとも、別の態度をとってよいとも主張していないのである。
 では、人自身とその人の行為や性質とに対して、どのように扱ったらいいのだろうか。次のような文について考えてみてほしい。
 
「罪を憎んで、人を憎まず」、「悪を嫌って、人を嫌わず」
「功を賞して、人を賞さず」、「善を愛して、人を愛さず」

ある人とその人の行為を見比べたとき、その人の評価や人柄は、その人の行為や性質の評価に還元されるのか、そうではないのか。これが結構厄介な問題で、上の四つの文を比較した場合、孔子の諺以外は承服しがたい文ではないだろうか。例えば、「功を賞して、人を賞さず」が正しいとなれば、勲章や各種の栄誉賞は誰をも賞さずということになり、表彰は宙に浮いてしまうのではないか。生活世界では人の功を賞することはその人を賞することなのである。さらに、人の善き振舞いを愛すれば、その人を愛することも生活世界では常識である。
 ところが、ある人自身とその人の性質や行為の間の違いを気にするのが哲学。逆に、それを気にしないのが常識。孔子の諺はこの常識に反して、哲学に加担していると考えることができる。では、人は誰かを好きになることが本当にできるのか。普通は誰もそんな疑問はもたない。生活世界で人を好きになったり、嫌いになったりするのは私たちの本能のようなものだから、誰も疑わないのは当然のこと。だが、哲学に加担し、そんな疑問にしっかり答えようとすれば、どんなことが必要になるのか。
 物自体は「物自体」としてしか表現できず、無限小も「無限小」と呼ぶしかない。それは、「1より大きい実数の中で最小のもの」と同じように、直接にその対象を指示しているようにみえて、実はそれができないものなのである。これに対して、「私の隣人」や「1より大きい自然数の中で最小のもの」は具体的に確認して指示でき、固有名詞を使って呼ぶこともできる。
 恋人、家族となれば、その存在を疑うことなど考えられないほどに実在的だと見做されている。方法的懐疑など当てはまらない代表の筈なのだが、その根拠は日頃の経験だけで、その経験となれば人自身ではなく、その人の外見や声の経験でしかない。つまり、経験しているのはその人自身ではなく、その人についての知覚経験(所与)に過ぎない。だが、そんな風に考えないのが私たちの生活世界のやり方である。好きな彼女は、彼女を表現する前に存在するのが生活世界である。だが、彼女の存在なしに直接に彼女自身を表現しようと考え出すと、そのような文が見つからず、何も思い当たらないのである。彼女の何が好きであるかはいくらでも述べることができるが、彼女自身を直接に表現することが厄介なために、「彼女が好きである」ということも実はうまく表現できない。でも、生活世界ではそんなことは大したことではなく、兎に角彼女が好きだと言い、行動に出るだけでうまくいってしまい、時にはそれこそ若さの特権ということになっている。
 「誰が好きか」、「何が好きか」、「誰の何が好きか」という問いを見比べたとき、同じような問いに見えたとしても、後の二つの問いが尋ねる前に解答できないように見えるのに対して、最初の問いは簡単そのものに見える。だが、後の二つは容易に解答できるが、最初の問いが実は何を意味しているのかはとても分かりにくいのである。そのように考えるのが哲学なのだが、人の何が好きかを特定できなくてもその人が好きだという方が単純明快でわかりやすいというのが私たちの常識になってしまっている。この大きな違い、あるいは哲学と常識の対立は一体何なのか。
 私たちが暮らす生活世界は個人を単位の一つとして成り立っていて、その個人が好きだ、嫌いだというのが生活の基本になっている。そして、ある個人が好きだという理由としてその個人の何が好きなのかが求められる場合が多い。だが、上述のようにそれらは異なっている。日常世界では「誰が好き」と「誰の何が好き」はほぼ同じ程度に自明の事柄として考えられ、使われている。それらを話したり、考えたりすることが同じように捉えられているのが私たちの生活世界のもつ大きな特徴なのである。私たちの世界は個人を基本単位の一つとして成立していて、その個人が好きか嫌いかは基本的な事柄なのである。
 人のもつ性質だけでなく、どんなものの性質も誰かの性質、何かの性質である。それぞれの性質は個体、集団、組織等がもつものであり、それらの性質として実現されている。かつて個体、集団、組織等は基体(substance)と呼ばれていた。性質は個体や集団の性質であり、性質をいくら集めても個体や集団にはならない。現象や事態を眺める場合、基体を重視するのが実在主義の基本的立場、性質を重視するのが経験主義の基本的立場。個体や集団をまず措定し、次にその性質を考えるのが古典的な方法であるのに対して、近世以降の思考は唯名論的、経験論的に、経験できる性質の検証や測定に重点を置く。

 原子が何からなり、どのような性質をもつか
 個人が何からなり、どのような性質をもつか

上の二つの問いの間にどのような違いがあるか、未だにうまく整理されていないのは確かなようである。にもかかわらず、生活世界では、

 アメリカが嫌いだから、アメリカの特徴も嫌い
 アメリカの特徴が好きだから、アメリカも好き

から、アメリカが好き⇔アメリカの特徴が好き、が当たり前のように導き出され、アメリカとアメリカの特徴はほぼ区別されずに扱われているのである。

 ここで架空の対象や人物について考えてみよう。チェシャ猫は1865年にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のキャラクターとして登場した。チェシャ猫のモデルは、エドワード・ピュージーと言われている。キャロルがオックスフォード大学の学生だった頃、ピュージーは学内の大聖堂で司教をしていた。聖職者の父の旧友でもあったピュージーは、学業成績が優秀なキャロルを、オックスフォードの特別研究生に推薦した。そんな経緯がチェシャ猫登場の裏にあったにしろ、アリスもチェシャ猫もキャロルが創作した対象で、私たちの周りにある所与の(given)対象ではない。架空の生き物、想像上の動植物、小説の登場人物はいずれも実在しない創作に過ぎない。さらに、その創造の範囲を広げれば、天狗、天使,鬼、悪魔、さらには仏や神と様々な存在が考案されてきた。
 それら架空の対象の特徴は何だろうか。一角獣も鬼ヶ島の鬼もそれらの性質の集まりとして定義されている。人の考案になる架空の対象は、その対象のもつであろう性質の束によって定義され、直接に指し示すことができない。これがその特徴。だから、アリスもチェシャ猫も本物を指さすことができないのだが、定義に従って絵に描いたり、言葉で述べたりすることはできる。ところが、所与のものは性質の集まりとは違って前触れなしに直接与えられ、それが何であるかは後で記述される。
 私が上で述べたかったのは、所与と定義による指示の間の違いの有無についてだった。言語哲学的には指示の記述説と因果説の違いと言ってもいいものである。所与の個人は謎を本来的にもつが、小説の中の個人は謎をもつと定義されるか、定義が不十分で謎をもつかのいずれかである。だから、科学者は所与の人間ではなく、定義されたヒトをもっぱら用いる。

 私は眼前の赤い紙を見て、「いま、その紙が赤い」と感じ(「赤」は感覚所与、sense-data)、それに直接的に気づく。勿論、私には赤く見えているが、本当は赤くないものを間違って赤いと見ていると訝ることは可能だから、「目の前に赤いものがある」という(言葉による)報告には正当化(justification)が必要になる、と思う人がいるかも知れない。しかし、「私に赤く見えている」ということは私には間違えようがない。「赤く見えている」ような気がしているだけで本当は「赤く見えていない」という勘違い(私が私自身の感覚内容について勘違いすること)はあり得ない。私が、私に現れる感覚質「赤」を直接的にデータとして受け取り、赤いと感じるのであるから、これ以上の正当化はできない。それゆえ、感覚所与はそれ自身正当化を必要としない。だから、その性質を使って他の信念の正当化を与えることができる。それ自身が正当化不要で、他の信念を正当化できるのなら、これは大いに特権的である。
 このような哲学的な説明には説得力があるようにみえる。どれほど自己懐疑に陥っても、疑っている自分を疑うことはできないことはデカルトだけでなく誰にも成り立つこと。そうでなければ、懐疑自体が存在しなくなってしまうからである。そして、それが直示的な感覚であれば、なおのことである。感覚のこの特権的性質を支えるものが、カントの「直観」であり、ラッセルの「センスデータ」であり、前期ウィトゲンシュタインの「私の世界」であり、現象学派の「現前」であり、サールの「知覚経験」である。これらはいずれも内在主義的であり、正当化の無限遡行の心配がない特権的な認知機能であり、それによって世界が理解できると考える。世界を理解可能にする機能が私たちの感覚に内在している。だから、私たちは感覚質を直接にわかるのである。こうして、それらはいずれも基礎付け主義の基礎的信念となり得ると考えることができる。