「ニワトリが先か、卵が先か」は因果性に関する問いで、「Which came first, the chicken or the egg?」となる。さらに、「chicken and egg」を形容詞的に使うと、「That is a chicken and egg debate.(それは因果関係がわからない論争だ)」と問いの核心を表現できる。
遺伝子はヌクレオチドがつながったデオキシリボ核酸(DNA)からできている。そのDNAの情報がリボ核酸(RNA)に転写され、RNAの情報からタンパク質がつくられる。アミノ酸がつながり合ったものがタンパク質で、そのつながり方をRNAが指示している。DNAとRNAは情報を担い、その情報が実現したのがタンパク質。タンパク質は細胞内で様々な反応を触媒し、細胞内外の構造を作り出し、細胞それ自体の運動を引き起こす。その際、生命の情報は「DNA→RNA→タンパク質」という方向にしか流れない。これが生命現象のセントラルドグマ。この→は一方通行である。
そして、謎が生じる。それは「卵が先かニワトリが先か」という謎。ニワトリが生まれるためには卵の存在が必要だが、そもそも卵はニワトリがいないことには作り出すことができない。では、いったいどちらが先なのか。
ところで、心臓や遺伝子はそれをもつ有機体の生存や生殖のための機能を担っている。この有機体中心の見方のもとで細胞、器官、さらには生物集団がどのような役割を有機体のために果たすか考えられてきた。この有機体中心のダーウィン的生命観を変えると、有機体はその組織や器官のために存在することになる。遺伝子は有機体のためにあるのか、逆に有機体は遺伝子を存続させるための一時的な乗り物に過ぎないのか。有機体は遺伝子の乗り物に過ぎないと主張したのがドーキンス(Clinton Richard Dawkins)だった。ずっと以前にバトラー(Samuel Butler, 1835-1902)は “A chicken is just an egg’s way of making another egg.”(卵は別の卵を生み出すためにニワトリを使う)とユートピア小説Erewhon(1872)で述べている。だが、依然として配偶子が有機体を生み出し、有機体が配偶子を生み出すという対称的な事実に対して、そのいずれに機能的な優先権を与えるべきか、それともそれは単なる約定なのか、と問われ続けられてきた。
*サミュエル・バトラーはイギリスの小説家。ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジを首席で卒業し、1859年ニュージーランドに移住。ダーウィンの『種の起源』が発表されると、バトラーは以後一貫して進化論批判を繰り広げる。1872年匿名で『エレホン(Erewhon)』を発表。理想郷エレホンの名前は、英単語「Nowhere」のアナグラム。
これとよく似た謎がミクロな生命世界にもある。ニワトリと卵ではなく、「DNAが先か、タンパク質が先か」という謎である。既述のように、生命現象をつかさどっているのは細胞内のタンパク質。細胞の構造と運動を支えるのもタンパク質。そしてこのタンパク質を作り出すため、細胞内にある設計図がDNA。DNA情報がなければ、タンパク質を作り出すことはできない。
では、いったい「何」がDNAを作り出したのか。ヌクレオチドを繋いでDNAを作り出すのは一体誰なのか。あるいは細胞が分裂し、増殖する際、DNAを複製してくれるのは何なのか。
DNAを作り出すのはDNA合成酵素である。DNAを複製するのはDNA複製酵素群である。DNAからRNAを作り出すのはRNA合成酵素である。そして、それらはすべてタンパク質。DNAを合成し、コピーし、その情報を伝達するのはすべてタンパク質の仕事。だが、DNA合成酵素も、DNA複製酵素群も、RNA合成酵素もすべてDNAの情報に基づいて作り出されるタンパク質である。つまり、タンパク質がないとDNAは作れない。だが、DNAがないとタンパク質はできない。
生命の出発点には、いったいどちらが先だったのか。最古の生命の痕跡は、38億年ほど前に出現したとされる原始的な細菌の化石だ。驚くべきことに、すでにそこには生命に必要なことはすべてそろっていた。DNAもタンパク質も出来上がっていた。そこに「Which came first, the chicken or the egg?」と問われ、「A chicken is only an egg's way of making another egg.」、つまり、「鶏は卵が別の卵をつくるための方法、手段、道具に過ぎない」とキッパリ明言されると、流石にバトラーだと感心してしまう。さらに、生物個体のもつDNAと生物個体自体はいずれが主人かとなれば、それはDNAだというのが20世紀以来の定番となり、このドーキンスの考えはバトラーの20世紀版だと解釈されることになる(Clinton Richard Dawkins, The Selfish Gene, 1976.)。
鶏と卵について、バトラーはいずれが原因で、いずれが結果かを問題にして、私たちをアッと驚かせ、困惑させた。常識は卵ではなく鶏を中心に事態を捉えてしまうからである。一方、ドーキンスは20世紀の生物学の知識を駆使して、バトラーの問いをいずれが主でいずれが従かと問い直してみせた。バトラーは因果的に先なのはいずれかと問うてみせたのだが、ドーキンスは論理的に先なのはいずれかと問い直したのである。そして、生物世界を考える際の基本単位はダーウィン以来の個体ではなく、DNAだと巧みに説明してみせたのである。
いずれの問い方が適切なのか、あるいは二つの問いの間の関係は何なのかなど、様々な疑問が次から次へと噴き出してくる。それらに対する解答を探す前に、問い方から問い直してみる必要がありそうである。
・どの季節が先で、どれが後か
この問いは発せられた文脈がわからないと、問いの意図がわからなくなる場合がほとんどで、大抵の人はこんなことを尋ねない。
・天と地はいずれが先にできたか
大地、海、空のいずれが先につくられたかは有意味だが、天と地のいずれが先かは曖昧で、問いとは誰も思わないだろう。
・上流と下流はいずれが先にできたか
これに答えるには頓智が必要だろう。
・サイクルや周期がある場合、原因や結果を識別し、同定できるか
昼と夜、春夏秋冬がないと、随分と自然観、風景といったものが変わる。因果的な変化を重ねていくと、いつの間にか周期的な規則性が登場することになる。あるいは、周期的変化はどのように因果的なのか。
・仮定とそこからの演繹的な帰結
囲碁や将棋の勝負に勝つ過程は因果的に説明できるが、勝つ理由は論理的にしか説明できない。
・親子関係、師弟関係、主従関係、友人関係等々の人間関係
これらの関係には因果的、論理的、反復的以外の関係がより大きな役割を演じていると誰もが思うのではないか。となると、いずれが主でいずれが従かなどという問い自体が大した問いではないこともわかるだろう。
状況に応じて因果的な前後関係だけでなく、論理的な前提と帰結のような関係も含め、いずれが主人公なのかといった問いを発したくなる。私たちの生活世界での常識となれば生物個体が中心となる世界であるから、個体の間での因果関係がもっぱら考えられ、それ以外のことは眼中になく、それゆえ問題として認識されないというのがこれまでの歴史だったと思われる。
では、鶏と卵の適切な関係とはどのような関係なのだろうか。バトラーの因果関係からドーキンスの論理関係へと議論の場は展開されてきたのだが、さらにそれを発展させるなら情報関係が考えられる。情報としてのプラン、設計があり、それを実現したのが結果と受け取ることができる。これは情報の流通と実現の関係とでも呼べばよいだろう。
プランとしての情報が実現されて、具体的なものが情報から生み出される。そして、その道筋、過程が反復的であり、しかも安定的にコピーされ続けることが生命維持に直結していることを考えるなら、いずれが原因でいずれが結果かも、いずれが主でいずれが従かも重要ではなく、コピーの存続のために二つのこと(DNAと生物個体)が使われていることを認識することが重要なのである。
随分とややこしい話になったが、最後に今から100年近く前の金子みすゞの詩を見てみよう。それは「蓮と鶏」という詩で、分子生物学などとは無関係のものである。バトラーは1902年亡くなるが、その翌年1903年に生まれたのが金子みすゞ。金子がバトラーを知っていたかどうか、私にはわからない。だが、既に挙げた彼女の詩を読めば、彼女が科学者ではなくても、作詞の際に自然を見つめる眼は科学に必要な感覚や直感を十分に備えているように思えるのである。
泥のなかから 蓮が咲く。
それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏がでる。
それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。
それも私の せいじゃない。
さて、バトラー、ドーキンスはこの詩についてどのように捉え、コメントするだろうか。そして、今の私たちはどのようにこの詩を理解するだろうか。
金子みすゞが敬虔な門徒だったことは既に述べた。最後に、それを見事に示す詩「お仏壇」も併せて読んでみてほしい。この詩は私の子供の頃の仏壇の記憶と妙に重なるのである。