私が生きる世界(6)

7(因果的でない)確率・統計的な世界
 数学者の心理世界は因果的でも数学の世界は因果的ではない。さらに、言語の世界も非因果的と考えられる。ところで、「言語の世界」とは文法の世界なのか。それとも文章が何を指示するかで決まる、指示対象の世界なのか。これらの問いが以下の話のヒントになる。一体何が因果的なのか、何が因果的でないのか、注意深く考える必要がある(この問いは、何が決定論的で、何が非決定論的なのか、という問いとほぼ同じ意味である)。文法の規則は因果的ではないが、意味の規則はどうか。意味の規則も因果的でないが、その意味内容の大半は因果的である。というのも、私たちが住む世界の中でのほとんどの出来事のほとんどの生起は因果的で、意味は究極的にはその世界での意味だからである。これが普通の解答だが、いつでもこれが正しい訳ではない代表が確率・統計の場合である。
 確率・統計は非因果的であると言われてきたが、何が因果的でないのか。それを説明するには「確率モデル」と「力学モデル」を比較し、如何に確率モデルが力学モデルと異なるかを示せばよいだろう。力学モデルは典型的な因果的モデルであり、その変化の記述は因果的であり、記述する数学は解析学ということになっている。力学モデルは物体の運動変化の解析的な記述である。だが、確率モデルは解析学を使わず、確率論や統計学という数学を使う。コイン投げを考えれば、その力学モデルはコインがどのように投げられるかの軌跡を描き、地面に表、裏のいずれかで落下することが示されることになっている。だが、確率モデルでは、途中の因果的変化ではなく、結果の裏、表だけが示され、裏表の頻度や分布が述べられる。コイン投げを扱いながら二つのモデルは一方は因果的、他方は非因果的にコイン投げを記述、説明している。一回のコイン投げの力学モデルは明解そのものであるが、5万回のコイン投げの力学モデルは明解だろうか。一回のコイン投げの確率モデルは不明瞭だが、5万回の確率モデルはとてもわかりやすい。[1]
 数学が非因果的と言う場合、論証が非因果的な規則に支配されている場合と、そのモデルあるいは指示対象が非因果的である場合がある。確率モデルが非因果的なのは、確率の計算の規則が因果的な変化ではないというだけではなく、そのモデルが描く内容に因果的な変化を示すもの、例えば、軌跡がなく、それゆえ、時間的な変化がモデルに何も表現されていないからでもある。つまり、上の二つの場合の両方が確率モデルで満たされている。
 実際、確率モデルでは運動変化を表現するものは何もなく、変化の結果だけが表現されるようになっている。コインが手を離れてどのように空中を落下し、地面に落ちるかを表現する運動方程式は確率モデルには一切ない。確率モデルは、表か裏かの比率が表現できるモデルである。そして、表裏の結果は物理量の値ではなく、コイン投げの結果の頻度や傾向性を表す指標であり、私たちはそれをシャノンに従って情報量と呼んできた。「公平なコインを投げると表が1/2の確からしさで出る」という文がどのような意味か、つまり真であることを示している。
 物語は言語で表現されるが、文章は因果法則にではなく、文法に従っている。物語もそれを語る言語は文法に従うが、当然ながら語られる世界の基本的な変化は因果的な古典力学の法則に従っている。[2]

[1]力学モデルと確率モデル:コイン投げなどを例にして、力学モデルと確率モデルを丁寧に比較する必要がある。
[2] (因果的に)決まらないと何事も進行しない場合と、(論理的に)決まらなくても因果的な変化が進行する場合があり、それが物理的な決定論と論理的あるいは言語的な決定論との違いと考えられてきた。