平凡:凡庸な一生の生物学的意義

 凡庸な女性が遠くの村の見知らぬ若者と結婚し、何人かの子供に恵まれ、その後さらに多くの孫に囲まれ、実に平和な一生を過ごす。平凡この上ない物語のどこにも謎など隠されていない。何の取り柄もない人の平凡な一生は、生きることと生むことに尽きる。性欲に後押しされて異性を求め、恋に落ち、結婚する。生まれた子供は両親と血縁関係でしっかり結ばれ、養育され、さらにその関係が子孫に次々と繋がっていく。それが部族や種族にまで拡大し、国家、さらには人類へ…ということになる。血縁か否かは相対的なものに過ぎないとしても、これが日常生活では意外に重要な事柄で、家族も地域社会も血縁、地縁で成り立っている。

 ところで、この話は生物学的な事実を記述したものなのか、それとも私たちの文化的な習慣を説明したものなのか。それら両方をないまぜにして考え、認めてきたのが私たちの特徴ではないか。

 20世紀の生物学の進歩は目覚ましく、特に遺伝学は20世紀の生物学を代表するものだった。その遺伝学が生命の実証レベルだけでなく、思想・哲学のレベルでも重要な役割を果たしたのは進化論と結びついたからに他ならない。その結びつきは進化の「総合説」と呼ばれ、1930年にフィッシャーによって唱えられ、進化生物学へと展開していく。そのような生命研究の根幹を支える進化の仕組みが「自然選択」。その自然選択の眼から「結婚」を眺めてみよう。

 結婚の現在の社会通念と比べると、「結婚は血縁関係を確立する有性生殖の一手段」は大変保守的な主張である。この「保守性」が生物学の特徴で、それは次のような言明によって表現できる。

二人が結婚していれば、二人は他人である。

 二人が他人であることが結婚の必要条件になっている。ここでの「他人」とは生物学的に異なる遺伝子をもつということだが、社会的な常識は夫婦が他人とは言わない。ここでの「他人」とは「二人は生物学的に他人」ということである。

二人に子供があれば、二人は結婚している。

 これはほとんどの社会でかつて共通していた習慣である。これら二つから、

二人に子供があれば、二人は他人である、

ことが三段論法的に帰結する。他人である二人は死ぬまで生物学的に他人なままである。それは多様性の保持につながり、それが結婚の生物学的意義となる。だが、これでは血縁関係はどのように保持されるのか不明である。血縁関係は結婚した二人の子供によって保持される。夫婦は生物学的に他人でも、子供は生物学的にその他人の夫婦のいずれとも血縁関係をもつ。親同士は他人でもその子供から見れば、両親は一番親密な血縁関係をもつ。そして、その血縁関係は、子供、そして子孫の存続によって保持される。

 血縁関係を未来に向けて持続させるのが結婚。それ自体が重要な意義をもつように装いながら、生物学的には健全な子孫を供給させるための実に見事な装置になっている。

 さて、ここから少々異端的な見解を考えてみよう。反社会的と非難されそうなのだが、夫婦関係が偶然的であるのに対し、親子関係は必然的であるという見解である。勝手に解消できないのが親子関係で、その理由は生物学的な根拠にあるが、夫婦関係にはそのような必然的関係はない。とはいえ、便宜的なきっかけに過ぎない夫婦関係を通じて親子関係が生まれてくる。社会の中で親子関係を法的に解消できても、生物学的な解消はできない。この偶然と必然の組み合わせが最終的に種の存続に繋がっている。血縁関係の基本は親子関係であり、その親子関係のきっかけを与えるのが夫婦関係なのである。

*今では夫婦関係や親子関係を乗り越えて新しい人間関係をつくろうという試みが数多くあるが、親子関係を無視することが無謀な試みであることは上述のことから明白である。