「ある男が村の娘と結婚し、子供に恵まれ、その後さらに孫に囲まれ、平和な一生を過ごす」という凡庸この上ない物語のどこにも謎などない。人の平凡な一生は「生きること」と「生むこと」に尽きる。子供は両親と結ばれ、その関係が子孫につながっていく。家族や地域社会は血縁、地縁で成り立ち、それが部族や種族に拡大し、国家、人類につながる。では、このような物語は生物学的な事実を記述したものなのか、それとも私たちの文化的な習慣を説明したものなのか。
20世紀以降の生物学の進歩は目覚ましく、特に遺伝学は20世紀の生物学を代表するものとなった。その遺伝学が進化論と結びつき、進化の「総合説」と呼ばれ、進化生物学へと展開していく。そのような生命研究の根幹を支える進化の仕組みが「自然選択」。その自然選択の眼から「結婚」を眺めてみよう。結婚の社会通念は現在変わりつつあるが、「結婚は血縁関係を確立する有性生殖の一手段」は今では大変保守的な主張と思われている。だが、この保守性こそ生物学の特徴で、それは次の言明によって説明できる。
二人が結婚していれば、二人は他人である。
実際、二人が他人であることが結婚の必要条件になってきた。ここでの「他人」とは生物学的に異なる遺伝子をもつということだが、社会的な常識では夫婦を他人とは言わない。
二人に子供があれば、二人は結婚している。
これはかつてほとんどの社会で共通していた習慣である。これら二つの言明から、
二人に子供があれば、二人は他人である、
ことが帰結する。他人である二人は死ぬまで生物学的に他人なままである。だが、そのことが多様性に基づく結婚と、結婚の生物学的意義となっている。一方、親と子の間で保持されるのが血縁関係で、それは結婚した両方の親とその子供によって保持される。夫婦は生物学的に他人だが、子供は生物学的にその他人の夫婦のいずれとも血縁関係をもっている。親同士は他人でも、その子供から見れば、両親とは一番親密な血縁関係をもっている。そして、その血縁関係は、子供、そして子孫の存続によって保持される。
人の場合、血縁関係を未来に向けて持続させるのが結婚で、生物学的に健全な子孫を供給するための実に見事な装置になっている。人らしさは生物を超えるところにあるというのが人の特徴で、それは文化進化、超生物進化、ヒトではない人の進化などと呼ばれてきた。では、文化進化と生物進化は矛盾するものを持っているのだろうか。進化の持つ不思議な特徴の一つに絶滅がある。適応や持続だけでなく、種の絶滅も進化の一側面であり、自然に添って適応し、繁栄するも進化、自然に逆らって絶滅するも進化である。人の文化の中のLGBTも、それが社会に認められることによってその社会がどうなるかは、それが自然に叶うものか否かとは無関係に、いずれも進化の過程として可能なのである。生物進化の中で扱われる文化進化は自然進化と異なるのではなく、進化の一つに過ぎない。つまり、私たちは自然に逆らって進化することなどできないのである。