元旦の再確認

 「人間は理性的で、倫理や道徳をもつ動物」という伝統的な見方を進化論は説明できないという偏見を書き出してみると、次のようになります。

・人間以外の生物はすべて利己的なため、進化論は人間の利他性を説明できない。

 そこで、倫理や道徳の萌芽である「利他性(altruism)」を考えてみましょう。利他性は事実に関する事柄ではなく、それゆえ、経験科学である進化論は利他的な事柄を説明できない、というのが伝統的な常識です。この常識の背後には、利他性は倫理的、道徳的なものの萌芽であるのに対し、利己性は倫理的、道徳的でない自然的な性質である、という考えがあります。確かに、人間以外の動物は、生存と繁殖のために利己的に振舞うように運命づけられているように見えます。動物が利他的に振舞うことは生存と繁殖に反することであり、それゆえ、そのような動物は生き残るうえで不利であり、最後には絶滅することになります。つまり、利他的な性質をもつことは、動物にとって不合理極まりないことなのです。したがって、人間のもつ倫理や道徳は動物としての人間ではなく、精神としての人間のもつ特徴とされました。その結果、人間は生物学では十分に扱うことができず、特に人間の精神や心は生物学の研究対象から外されることになったのです。今でも人間の心や精神を科学的に考えることに抵抗する人がたくさんいます。

  ダーウィンは「変異(variation)、適応度(fitness)、遺伝(inheritance)」の3条件は自然選択(natural selection)が存在するための必要条件だと考えました。生物の集団内の個体には変異(個体差、個人差)があり、その差が適応度の違いを生み出し、生存と繁殖に関して有利-不利の違いとなって現われ、その差は遺伝します。この仕組みが世代交代を通じて永い期間働くことによって生物種が分岐するような仕方で進化が起こります。これがダーウィンの自然選択による生物進化の考えの大筋です。「動く」が力学の基本述語なら、「選ばれる」が進化論の基本述語で、この基本述語の名詞形が「選択」なのです。

 適応度の高い生物が生存闘争に勝つという、ダーウィンの自然選択をそのまま使ったのでは利他的性質がなぜ適応的であるのか説明できません。利己的な個体の方が利他的な個体より生存や繁殖に関して有利にみえます。利己的形質は有利な性質であり、利他的な性質(=自己犠牲を払う性質)は不利な性質に思われます。でも、選択概念を考え直し、拡張することによって、「生物は時には利他的である方が有利である」ことを進化論は説明できるようになりました。その拡張された概念が血縁選択(kin selection)や群選択(group selection)です。群選択や血縁選択の結果として、利他性の役割が説明できるのです。

 利他性が倫理や道徳の基本にあるとすれば、倫理や道徳が生物学的な起源をもち、私たちが生存し、繁殖することに根ざしていることになります。理性が人間に独特のものではないように、倫理や道徳も人間に独特のものではないのです。

*何年も前にほぼ同じことをやはり元旦に書いていました。