好対照の大天武と象山

 修那羅山は大鹿生まれの修那羅大天武が開いた聖なる場所です。安宮神社の境内には、現在800を超す石造の神仏が残されています。その石仏の中には修那羅大天武の像もあります。松代藩の洋学者佐久間象山が修那羅大天武への信仰が篤かったという言い伝えあり、佐久間象山が奉献したとされる千手観音像も鎮座しています。

 修那羅大天武(1795-1882)が旱魃から農民を救うのが1855年、その後1860年に彼は現在の安宮神社をつくります。また、千曲市八幡郡にある曹洞宗の大雲寺の裏山が霊諍山と呼ばれていて、修那羅山に似て120基を超える石仏、石神、石祠、文字碑、自然石、そして、社殿があります。霊諍山の信仰は修那羅、御嶽教神習教の三つがミックスしたものになっています。

 一方、民俗信仰などとは無縁の筈の佐久間象山(1811―1864)は1854年から1862年まで吉田松陰の密航事件で松代に蟄居を命じられています。筑北村と松代はそれ程離れていませんし、ひょっとすると、大天武と象山は知り合いだったとも想像できるのです。しかし、二人はまるで好対照の生き方、考え方をしていて、水と油のように見えます。残念ながら、これまでのところ、二人の関係はよくわかりません。

 松代藩佐久間象山は早くから開国と公武合体を主張し、吉田松陰坂本龍馬に西洋技術の摂取を勧めていましたが、京都で攘夷派に暗殺されます。「東洋の道徳、西洋の芸(技)術」は象山の最も有名なスローガンです。蟄居の身となった象山ですが、松代には象山を訪ねて松蔭の弟子である高杉晋作久坂玄瑞が面会に訪れています。

 1913(大正2)年の象山殉難五十年祭を機に神社建立が計画され、1938年(昭和13年)に創建されたのが象山神社佐久間象山の名は一般的に「しょうざん」と読まれますが、長野では山の名前から「ぞうざん」と呼び習わされていて、神社も「ぞうざん」神社。

 何とも好対照の二人ですが、象山が松代に蟄居し、日本の将来を分析し、考察している頃、近くで修那羅大天武が生活する庶民の安寧を求めて祈っていたのです。この二人の生き様の違いだけでも驚嘆すべき奇跡のように思えます。