火打山の知られ方として大島亮吉に言及しました。その大島より4歳だけ若いのが深田 久弥で、『日本百名山』(新潮社、1964年)で有名です。彼は石川県大聖寺町(現加賀市)出身で、東京帝国大学文学部哲学科卒の小説家、随筆家、そして登山家です。大島や深田の先輩になるのが槇有恒で、1921(大正10)年にアイガー東山稜を踏破し、それが大きな刺激となって、日本の登山史に大きな転機が訪れました。刺激を受けた旧制高校生や大学生たちが次々に山岳部を誕生させ、その一部が火打山や笹ヶ峰での訓練に繋がっていました。その結果、大学間の競争が激化し、道具を用いる岩登りとスキーを使う積雪期登山の時代を迎えました。
この時期に大いに貢献したのが大島の文章です。大島はヒマラヤに向かうエネルギーの上昇期に早すぎる死を迎えたのですが、槇は1956年マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂に成功します。深田久弥はヒマラヤの主要な高峰たちが登頂されて登山界が最高度の目標を喪失した後の時代に『日本百名山』によって日本中に根強い影響力を発揮しました。日本山岳会100年の前半期のアルプス情報を伝えた大島亮吉とまったく反対に、深田久弥が後半期のヒマラヤ時代に貢献した人物ということになります。極端な言い方をするならば、大島はマナスル以前を象徴し、深田はマナスル以後を象徴しているかのように見えます。
大島亮吉が若いロマンティストであったのに対し、深田久弥の『日本百名山』は大島のロマンティシズムとは正反対に、島国日本の中でだけ最大限に登山を楽しもうとする人の言わば反ロマン主義的な、リアリズムの産物であるように見えます。大島が英独仏の言語を習得してアルプス関係の文献を読み漁ってまとめる学者の一面を見せたのに対して、深田は文学者として印象的な紀行文を執筆し続けました。
*宮下啓三「大島亮吉と深田久弥-大きな功績と小さな過失」(『山岳』、2008、pp.159-70)を参考にしました。