(これまで記した二つの雑文をまとめ、改訂したもの)
頚城三山のゆるぎなき主役は妙高山。それは古くから信仰の対象となり、関山神社の別当寺宝蔵院が山を管理してきました。では、他の山々はどうだったのか。糸魚川から静岡までのフォッサマグナを境に日本列島が分裂したとき、東西の両側が大きく隆起した結果、西には北アルプスが、東には火打山を中心とする頚城山塊ができました。糸魚川市と妙高市にまたがる標高2,462mの頸城山塊の最高峰が火打山で、そこには多くの高山植物からなる日本有数のお花畑があり、ライチョウが棲んでいます。火打山は火山の焼山と妙高山に挟まれた穏やかな山容の山で、火山ではなく、堆積岩から海生動物類の化石が発見されています。一方、妙高山は火山で、高山植物は貧弱です。山のでき方が妙高山と火打山では異なるだけでなく、二つの山の知られ方も随分違っていました。では、火打山は信仰対象の妙高山とどのように違う知られ方をしたのでしょうか。
大正8(1919)年慶應義塾大学山岳部の大島亮吉が笹ヶ峰を訪れ、火打山周辺を山岳誌に紹介します。その見事な文章によって、笹ヶ峰と火打山は冬山訓練のメッカとして知られることになります。京都大学学士山岳会の今西錦司や西堀栄三郎、桑原武雄などがここで訓練を積み重ね、マナスル登頂に成功します。
28 歳の若さで春の前穂高岳に逝った大島亮吉の遺稿集『山:研究と随想』(昭和5年、岩波書店)、さらには、『山-随想-』(昭和43年、中公文庫、上記岩波書店の本から研究の部分を省いて文庫化)は山岳文学の名品中の名品。それは、単なる登山の記録の域を超えています。その大島の先輩の一人が槇有恒で、彼は大正10(1921)年アイガー東山稜登攀に成功しています。蛇足ながら、彼の父槇武は新潟県の士族でした。
大島亮吉『山 研究と随想』岩波書店、1930年
大島亮吉『先蹤者 : アルプス登山者小伝』梓書房、1935年
火打山の知られ方として大島亮吉に言及しました。その大島より4歳だけ若いのが深田 久弥で、『日本百名山』(新潮社、1964年)で有名です。彼は石川県大聖寺町(現加賀市)出身で、東京帝国大学文学部哲学科卒の小説家、随筆家、そして登山家です。大島や深田の先輩になるのが槇有恒で、1921(大正10)年にアイガー東山稜を踏破し、それが大きな刺激となって、日本の登山史に大きな転機が訪れました。槇に刺激を受けた旧制高校生や大学生たちが次々に山岳部を誕生させ、その一部が火打山や笹ヶ峰での訓練に繋がっていました。その結果、大学間の登山競争が激化し、道具を用いる岩登りとスキーを使う積雪期登山の時代を迎えました。
この時期に大いに貢献したのが大島の登山に関する文章です。大島はヒマラヤに向かうエネルギーの上昇期に早過ぎる死を迎えたのですが、槇は1956年マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂に成功します。深田久弥はヒマラヤの主要な高峰たちが登頂されて登山界が最高度の目標を喪失した後の時代に『日本百名山』によって日本中に根強い影響力を発揮しました(そのタイトルは「名山」で、「名峰」ではありません)。日本山岳会100年の前半期のアルプス情報を伝えた大島亮吉と正反対に、深田久弥が後半期のヒマラヤ時代に貢献した人物ということになります。極端な言い方をするならば、大島はマナスル以前を象徴し、深田はマナスル以後を象徴しているかのように思えます。
大島亮吉が若いロマンティストであったのに対し、深田久弥の『日本百名山』は大島のロマンティシズムとは正反対に、島国日本の中で最大限に登山を楽しもうとする人の言わば反ロマン主義的な、リアリズムの産物であるように見えます。大島が英独仏の言語を習得してアルプス関係の文献を読み漁り、それをまとめる学者の一面を見せたのに対して、深田は文学者として印象的な登山紀行文を執筆し続けました。
*宮下啓三「大島亮吉と深田久弥-大きな功績と小さな過失」(『山岳』、2008、pp.159-70)を参考にしました。