怨霊、英霊の御霊を祭神とする神社となれば、古くは菅原道真を祀る天満宮、そして、英霊を祭る靖国神社、護国神社が挙げられる。誰でも死後に怨霊になる可能性があるから、祀られる御霊は限りない程多いことになる。
そんな御霊で気になるのが関山神社。その社殿は国の登録有形文化財だが、3年前に社殿に入った途端、海軍大将、重巡「妙高」、旭日旗が次々と私の目に飛び込んできた。社殿で戦争を身近に感じるという不思議な経験をしたのを憶えている。しかも、山の中の神社になぜ海軍なのかと戸惑い、時間が戦時中で止まったような錯覚までもってしまった。
*ここまでの記述は2021年の現在は変わっているかも知れない。
では、海軍崇拝とも受け取られかねない品々がこうも社殿に収納されている訳は一体何なのか。海上自衛隊の護衛艦の中に「みょうこう」があるが、その艦名は妙高山に因み、旧海軍妙高型重巡洋艦「妙高」を引き継いでいる。話はその初代に遡る。旧海軍の艦の武運長久や安全を祈願して艦艇の艦内に神社が設置されていた。実際に海軍の規則として決まったのは昭和15年。艦内神社は実在する神社から分霊された「神社」である。神社は先ず「艦名に因む神社」を氏神として探して、それが見つからなければ「海神や戦神関係の神社、もしくは伊勢皇大神宮(内宮)」を祀ることになっていた。だから、当然の如く、「妙高」は妙高山の麓にある関山神社を奉祀することになった。「妙高」は終戦をシンガポールで迎え、人員宿泊・他艦船の修理・通信などの担任母艦として使用された。その後イギリスに接収され、イギリス海軍は自沈処分を決定。「妙高」は昭和21年、マラッカ海峡で海没処分された。
このような歴史が今でも関山神社に海軍由来の品々が残っている理由なのだろう。戦後生まれの人間には不思議であり、戸惑い、不安な気持ちになる。宗教的、文化的な遺産としての関山神社が第二次大戦に深くかかわっていたという別の姿をもっており、それが今でも社殿に無防備に、素直過ぎる仕方で残されているのである。護国神社や靖国神社を訪れたときの印象によく似ていて、重巡「妙高」の英霊が御霊として祀られていると思ってしまうのである。
では、肝心の関山神社はどのような由来をもつのか。妙高山は、和銅元(708)年に裸形上人により開山され、大同5(810)年に空海が山頂を極め、神のお告げを受け、朝廷に奏上、関山神社のもとになる妙高山の里宮が建立されたといい、最盛期には山岳修験の道場として七堂伽藍をはじめ70余坊が存在。だが、戦国時代末期の天正10(1582)年、織田信長の軍勢が侵攻し、ことごとく焼き払われて衰退。しかし、信仰の場としての関山神社の存在は受け継がれ、江戸時代に入り、幕府の支援によって関山権現の別当寺宝蔵院(上野寛永寺の末寺)が再興される。上杉謙信の甥とされる宝蔵院二世院主「俊海」が社殿を再建。現在の社殿は、15 世院主「薩海」が文政元(1818)年に完成。高田職人町の大工が棟梁となり、高田の職人を中心に建立される。
関山神社は江戸時代まで「関山権現社」と呼ばれ、三体の仏像を本尊としていた。明治元年に神仏分離が進められると、この三体を見ると目がつぶれるという伝承とともに秘仏にされた。主尊は銅造菩薩立像で国指定重要文化財。聖観音菩薩像は、飛鳥時代に百済あるいは中国南朝から伝来。法隆寺に伝わる数々の仏像をはじめ、飛鳥時代に日本で製作された最初期の仏像に強い影響を与えたとされる「百済仏」の特徴をもち、朝鮮半島からの仏像伝幡を考える上で貴重とされ、平成21年に国の重要文化財に指定された。左尊は十一面観音菩薩像で、妙高市指定文化財(室町時代)。右尊は文殊菩薩像で、やはり妙高市指定文化財(江戸時代)。