関山神社の「火祭り」

 市議会選挙は市民でない私が発言しても大した意味はない。一方、祭りとなれば、市民でなくても、心躍るもの。新井で育った私は関山神社を知らなかったし、白山神社さえ遠くにある神社だった。それが妙高市になってどのように変わったのか、実のところ住民でない私には皆目わからない。それでも、故郷のことゆえ、火祭りは気になる。かつて妙高山信仰の拠点となっていた関山神社の「火祭り」は今日まで。初日の15日は神事に続き、本殿前で伝統の「仮山伏の棒使い」(県無形民俗文化財)が4年ぶりに奉納された。

 神社を戦乱から守るために山伏が習得した棒術を氏子が山伏(≒修行僧)に扮して披露するのが「仮山伏の棒使い」で、演武の種類は22。若者会を中心に伝承されてきたが、人口減少、少子高齢化に伴う後継者不足が悩みとなっている。奉納演武に続き、火祭りの名の由来にもなった「松引き」が行われる。

 仮山伏の棒術の演武は山伏たちが神社を守ろうと武術を身に着けたのが始まり。関山地域出身の、両親が健在の長男が山伏に扮して、仮の山伏、つまり「仮山伏」となり、神前に奉納するのが法蔵院流の「仮山伏の棒使い」の演武。神社氏子から選抜された若者が上と下にわかれ、2組ずつ、役抜けの役、火切りの役、火見の役とに別れ、長刀、太刀、六尺棒を使って演舞する。次に、火祭りの由来となる柱松神事で、演武を終了した仮山伏が、上と下に設置された2本の柱松に火打石で点火し、先に火の手が上がった村がその年大豊作になる。柱松に火が付くと、倒されて松引きとなる。仮山伏、子ども、地域の人たちが一緒になって宝蔵院前まで引っ張る。

 ところで、戸隠神社の柱松神事は鎌倉末期に始まり、江戸末期まで行われ、中断されたことが明らかになっている。それが復活したのが2003年で、戸隠山顕光寺奥院(現在の奥社)、中院(中社)、宝光院(宝光社)それぞれで行われていた柱松神事を中社で三つの柱松を燃やすことにした。雑木やネマガリダケを四角すいの形に組んだ高さ約2・5メートルの三つの「柱松」を燃やし、神主や修験者が周りを練り歩いて五穀豊穣(ほうじょう)などを祈る。

 「棒使い」は誰にも気になるもの。宝蔵院流槍術の開祖は胤栄(いんえい)。胤栄は上泉秀綱の門人で、槍と剣の達人だった。宝蔵院は奈良興福寺塔頭(脇寺=付属の寺院)で、興福寺は春日明神の社務を担当する清僧を抱えていた。胤栄はこの清僧の一人で宝蔵院院主だった。関山神社の宝蔵院は天台宗東叡山寛永寺の直末の寺院で、奈良の宝蔵院とは直接の関係はない。宝蔵院は寺社にある宝物、仏典、仏像や事務処理上の文書、さらに、食料等を保管する倉庫を指し、それが転じて寺院の院号として用いられるため、日本中に多くの宝蔵院がある。興福寺の宝蔵院の他には宇治市黄檗宗萬福寺塔頭の宝蔵院が有名である。

 槍、薙刀、棒、杖はどれも似た武器で、剣と並んで武器として洗練されてきた。木の棒によって、真剣を制するには、太刀の届かない九尺の間合が必要だった。人間が最初に手にした武器は、おそらく棒だろう。棒は武器としてはもっとも古い歴史をもつが、棒術として体系化されるのは薙刀や槍よりも後のことである。