既にここでも何度か堀口大學について述べました。堀口大學は1892(明治25)年東大赤門の前の家で生まれ、そのため「大學」と名付けられました。2歳で外交官だった父の故郷長岡に戻り、そこで長岡中学校卒業まで過ごします。慶應義塾を中退し、14年間に及ぶ外遊中に第一次世界大戦中スペインに亡命していた画家マリー・ローランサンと出会い、フランスの同時代の芸術に目覚めます。中でもキュビスムの擁護者であった詩人アポリネールや前衛詩に強い影響を受けます。1925(大正14)年、第一書房より訳詩集『月下の一群』を出版しますが、それは友人佐藤春夫に捧げられ、その名訳は若い詩人たちに大きな影響を与えました。その後は長谷川潔や棟方志功の挿画で飾られた美しい詩集や翻訳書を次々と発表していきます。
昭和16年から静岡県興津の水口屋別荘に疎開していましたが、昭和20年7月妙高市関川にある妻マサノの実家畑井家に再疎開しました。そこに1年5か月ほどいて、昭和21年高田の南城町に移り、さらに4年過ごしました。その後、神奈川県の葉山町に家を構え、そこで多くの詩集を出し、89歳で亡くなります。疎開先の高田には写真家濱谷浩、陶芸家齋藤三郎、彫刻家戸張幸男などの若き芸術家が集まってサロンの様相を呈していました。南城町は私も何度も通っていたのですが、大學がいたことなどまるで知りませんでした。
昨日新潟は雪がたくさん降ったようですが、雪や妙高山について大學が残した詩を引用してみましょう。『雪国にて』(昭和22年、柏書院)に「杉の森」という短い詩があります。
たださへさびしい杉の森
まして山里 雪の中
『冬心抄』(昭和22年、斎藤書店)の「白ばら」は妙高山を白ばらに喩えたものです。
西のかた
いち夜に咲いた一輪の
空いっぱいの大白ばら!
雪晴れの朝の妙高!
妙高高原駅から関川の信号を過ぎて右側に国天然記念物の大杉がある関川天神社があります。その天神社の近くに大學疎開の地があります。天神社の森に続いて、背後に妙高山を望む妙高高原南小学校(現妙高市立妙高高原南小学校)があり、大學はその校歌を作詞しています。その歌詞は次の通りです。
(一番)
越後信濃の国ざかい
瀬の音絶えぬ関川の
清き流れに名にし負う
歴史にしるき関所あと
(二番)
姿凛々しき妙高の
高根の風を身に受けて
われらこの地に生まれいで
爽けき中に人となる
(三番)
匂うばかりの雪晴れの
あしたの空のけざやかさ
天は瑠璃色 地は真白
われらが行くて祝うとや
「野尻湖」という詩は「都なる青柳瑞穂に」捧げられているのですが、大学2年生のフランス語の授業で、モーパッサンの短編集を読まされた青柳先生の姿が浮かび上がってきました。彼は1922年慶應義塾大学仏文科に入学。在学中にアンリ・ド・レニエの小説を日本語に翻訳し、永井荷風の個人指導を受けます。大学卒業後は堀口大學の門人として創作詩を発表、その後は翻訳家となりました。青柳先生の授業はもっぱらモーパッサンのことだけで、荷風も大學も登場しませんでした。さて、その詩とはどんな内容なのでしょうか。寡黙な越後や信濃の人たちとは違って、随分と饒舌に、賑やかに「ふるさと」を詠っています。
小田 坪田 それにやつがれ
三人で君を待ち
三人で釣をした
その日 野尻湖は瑠璃いろの玻璃だった
空は湖水とひと色だった
波は湖岸の藤波ばかり
かたの揃ったハヤが釣れた
どのハヤも君に似てゐた
山々がビクをのぞいた
妙高も 黒姫も 飯綱も、斑尾も
どの山も姿があった
どの山も青山だった
高根には雪が残って
蝉はまだ珍らしかった
クヮッコウがこだまし合った
*玻璃:水晶、ガラス、藤波:風で藤の花が波のようにゆれること、青山:草木が青々と茂る山