赤い実の「赤」(3)

 赤い実の赤色を見る、清流の音を聞く、甘いジュースを飲む等々の感覚経験の際の感覚自体(感覚質)、怒りや悲しみの感情経験をする際の感情自体は、カントの物自体に似て、言葉で表現できないものと考えられてきた。その場合、ものとその表現の違いが注目され、ものを言い尽くすことができない点が強調され、ガリレオが自然を数学的に表現することに成功した場合とは随分と異なる態度や姿勢が目立つことになる。経験内容が心の中でつくられた像やイメージのようなものであるため、言語による表現が厄介で、それゆえ第二性質と分類されることになった。それらは実在する物理的な対象とは異なり、実在するにしても心の中にしかないと捉えられることになった。

 「赤」という単語と、それが指示する色、そしてその色がどこにどのように実在するかについて私たちはどのように理解しているのか。色の光学、色の物理学で登場する色は物理的な対象であり、どこにあるかと言われれば物の表面にある。色の心理学での色は心理的な対象であり、色の経験とその内容が色ということになる。色覚は可視光線(400~800 nm)の各波長に応じて生じる感覚のこと。長波長(565 nm)、中波長(545 nm)、短波長(440 nm)付近の光に感度の高い視物質を持つ三種類の錐体が網膜に存在し、それぞれL-錐体(赤)、M-錐体(緑)、S-錐体(青)と呼ばれている。目に光が入るとこの錐体の視物質が反応し、その情報が網膜から視神経を伝わって大脳皮質の視覚中枢に運ばれ、色覚が生じる。
 紀元前4世紀頃、プラトンアリストテレスは「色彩とは何か」について考えた。二人の色彩についてのユニークな考えは次の通り。
プラトン:混色して新しい色を作り出すことは神に対する冒涜行為である。
アリストテレス:すべての有彩色は白と黒の間に位置づけられる。
 ギリシャ文明を受け継いだローマでは、色を表現する多種多様な材料が発見され、豊かな色彩語彙と多彩な表現技術が発展した。プラトンの「混色して新しい色を作り出すことは神に対する冒涜行為である」が中世ヨーロッパに受け継がれ、黄色と青色を混ぜて緑色を作ることは行われず、自然物から孔雀石、石緑などの天然緑色顔料を代用していた。
 ルネッサンスになると、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖学や透視図法、明暗画法などの新知識に基づいて、対象を忠実に表現するヨーロッパ独自の美術がスタート。さらに、新しい油絵の具によって、混色による写実的表現が可能になり、神話や聖書までもリアルに描かれるようになった。
 17世紀になると光学研究が進み、ニュートンのスペクトル発見に結実する。光に関する関心は画家にも共有され、カラヴァッジオルーベンスレンブラント、ヴェラスケスなどによるバロック美術が生まれた。フェルメール、ラトゥールなども17世紀の代表的な光の画家で、絵画表現に光と闇を対比させ、初めて光学的に正確な明暗画法が実現された。
 1704年にニュートンの「光学」が発刊され、スペクトル光による混色実験が行われるようになり、初めて補色が認識された。また、美術家や工芸家は色料の混合から経験的に三原色を知り、18世紀末にフランスの印刷業者ル・ブロンが世界で初めて赤、黄、青の三原色によるメゾチント印刷に成功した。
 19世紀のヨーロッパでは、人間の視覚に関心が向けられ、ニュートンの「光学」に対する批判から、主観的な色彩現象に注目したゲーテショーペンハウアーの色彩論が発表され、19世紀初めのヤングの三原色仮説を発展させたヘルムホルツ、マックスウェル、グラスマンなどの色彩理論が生まれた。

 これらの叙述、説明、解説を構成しているものは色覚や色彩についての知識であり、当然ながら言葉を使って述べられている。それは私の色の感覚経験そのものではない。色の経験は知識にもなるが、色の感覚そのものである感覚質は知識かと問われると私の意識は途端に霧に覆われ出す。それでも、丁寧に見比べ、考え比べることによって、色の直接経験、色の感覚質、色の知識としての科学的知見や歴史的知見、色の文化や伝統、さらには美術、それらの間の関係が少しはわかりやすくなるのではないか。「色を食べ、美を味わい、形に触る」ことに私たちは共感できる。それは私たちが感覚経験を持つからだけではなく、それを学習し、知識として経験できるからである。生得的な感覚は学習によって獲得的な知識も理解できるように変化するのである。私たちは誰もこのような直観的内容を説明したいと願っているのではないか。

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