知識がもつ三つの側面

 知識は人間がつくったもので、それゆえ典型的な人工物(artifact)です。その知識を使ってつくるもの、例えば自動車も建物も人工物です。物理学の理論は人工的ですが、理論は自然についての知識で、自然は人工的ではありません。

 知識は志向的(intentional)で、「何かについての知識」だとよく言われます。その「何か」が自然や自然の中にあるものならば、知識の内容は自然についてのものです。一方、その自然についての知識は人間が所有し、それは人間の言語によって表現されます。言語は学習可能なもので、自然についての知識は言語によって述べられます。それゆえ、知識を使って認識される自然は人工的な言語から切り離すことができません。そのため、自然を自然のままに理解しようとすれば、道教の仙人か禅僧になり、自然と一体化し、自然を感得するしかありません。

 騙され続けるのが私たちの知覚経験の特徴だと強調されてきました。それは真っ赤な嘘で、騙されてばかりなら私たちは生存できなかったでしょう。私たちはちゃんと経験できるし、正しく経験できたゆえに生き残ってきました。その経験は適応です。知覚は学習の結果であり、知覚の内容はその学習に左右されています。知識の志向的内容は人工的ではありませんが、知識を表現する仕方は人工的です。私の特定の表象は私の脳を使って意識的に行われますが、表象されるものは脳の中にはありません。知識そのものは人工的でなくても、私たちが知識に関わると人工的になります。

 認識論が存在論に代って第一哲学という自負をもってスタートした時、「知る」ことの多面性を忘れ、知る仕組みや過程から世界を推し量り、知る主体にもっぱら関心を集中しました。そのため、「何を知るか」は「どのように知るか」の背後に隠されてしまいました。また、知った結果である知識や技術は二次的なものとして軽んじられてしまいました。その結果、人が何に好奇心をもち、何を知るかは認識論の外に置かれてしまいました。

 科学者は知識を探求します。知る内容に没頭するのが科学者であり、だから科学は知る内容が世界に存在することを仮定し、またそれを疑うことに躊躇しません。科学者が知りたいのは知る過程でも、知る主体でもなく、知的な好奇心の対象を知りたいのです。何ともこれは当たり前のことで、科学、意識、知識はいずれも志向的です。

 20 世紀初頭からの数学の哲学と言えば、形式主義直観主義プラトン主義の三つの主義が有名です。「数学的に知る」ことの表現に関わる言語的、記号的側面を形式主義が、「数学的に知る」ことの認識や意識の過程に関する側面を直観主義が、そして、「数学的に知る」内容がプラトン主義の主張であり、三つの異なる主張は知ることの側面の違いに対応しています。そして、三つの異なる主張は、知識についての言語による表現、意識、志向的内容に関する説明に見事に対応していることがわかります。

*ここで問いを一つ。自然言語は自然的、それとも人工的ですか?