知識の三つの側面を垣間見る

 知識論(theory of knowledge)と認識論(epistemology)は同義語でもあるし、異義語でもある。様々な場面で、同じように、そして異なるように使われてきた。それ以前の主役は存在論(ontology)で、もっぱら外の世界の事物を対象としていた。その長い歴史の結果として、これら哲学的分野は同じではなく、その関係は今では次のように考えるべきだと思われている。

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 認識論が存在論に代って第一哲学という自負をもってスタートした時、「知る」ことの多面性を忘れ、知る仕組みや過程から世界を推し量り、知る主体にもっぱら関心を集中した。そのため、「何を知るか」は「どのように知るか」の背後に隠されてしまうことになった。また、知った結果である知識、技術、行為は哲学にとっては二次的なものとして軽んじられてしまった。その結果、人が何に好奇心をもち、何を知るかは認識論の外に置かれてしまった。だが、知識についての理論(=本来の認識論)は存在論、技術論、行為論を含む総合的なもので、さらに言語と切り離すことができないものである。

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 意識が志向的なのは意識が一般名詞であるからに過ぎない。だが、意識が志向的であることが認識論から忘れられてしまった点が意外にも重要なことだったのである。科学者は知識を探求するが、知る内容にもっぱら没頭するのが科学者である。だから、科学は知る内容が世界に存在することを仮定し、またそれを徹底的に疑うことに躊躇しない。科学者が知りたいのは知る過程でも、知る主体でもない。彼らは知ろうとする対象を知りたいのである。何ともこれは当たり前のことに過ぎない。科学、意識、知識はいずれも志向的で、「何か」の科学、意識、知識なのである。「何か」を忘れた何でもない化学、意識、知識は意味をもてない。

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 20 世紀初頭からの数学の哲学と言えば、形式主義直観主義プラトン主義の三つの主義が有名だが、1の認識論と同じで、多面的な内容を忘れた、短絡的な主張だった。「数学的に知る」ことの表現に関わる言語的、記号的側面を形式主義が、「数学的に知る」ことの認識過程、意識過程に関する側面を直観主義が、そして、「数学的に知る」内容がプラトン主義の主張であり、それら異なる主張は知ることの側面の違いに過ぎない。数学的な内容、その内容の表現、その内容の認識は「知る」ことの一側面なのである。数学的知識についてはこれら三つの側面のすべてが求められる。

 こうして、知識の内容(存在や現象)、知識の表現(言語や数学)、知識の操作(獲得と使用)について考察することが、知識について求められていることがわかる。