8割の接触削減

 「8割の接触削減」とはどのような削減なのか。クラスター対策班の西浦教授の説明によれば、これまで1日に10人と会っていたとすれば、それを2人にすることが8割削減。だが、私たちの生活はそんな単純なものではない。満員電車で一車両200人いたとすれば、200人に会っていることになり、それを8割減らすのであれば、一車両40人の電車に乗ることなのか、と問い返されてしまう。それでも、「ほとんど接触しない、接触の大半をなくする」などと表現されるより8割削減と言われた方が明快で、わかりやすい。数量による表現はわかりやすい工夫の典型的な一つなのだが、「8割のリンゴ」と「8割の忠誠心」を比べた場合、リンゴの方は明快なのだが、忠誠心の方はなんだかチンプンカンプン。どうも私たちには数えることができるものとそうでないものの区別があって、数えられない、計れないものに数量を表す語彙を使うべきでないというルールがあるようなのだ。「接触」は数えられる部分とそうでない部分の両方をもっていて、まずは物理的な接触に限るのが適切だろう。というのも、感染は心の絆を通じてではなく、主に物理的な接触によって起こるからである。数理モデルでは私たちの接触が数量化できると前提した上で計算されるが、数量化の具体的な仕方は問われていない。したがって、8割削減は私たちの社会行為に対して解釈し直さなければならない。だが、「8割の忠誠心」ほどではないが、生活世界での接触は物理的ではあっても、解釈しにくいことは誰にもわかるだろう。

 最近よく聞くのが社会的距離(social distancing)。当たり前のことだが、相手と離れていれば、物理的な接触は起こらない。その「接触」を広く考えて、2m以内に近づくことと定義すれば、2m以上の距離をとって相手に接する、話すならば、それが接触しないことになる。それをさらに一般化すれば、直接の会話や談笑は避け、電話やSNSを通じての会話ということになる。もう一つはものとの接触。手を使って触るものは多いし、その手は自分の顔にも触る。これには消毒しかない。つまり、「人との物理的な接触、消毒なしのものとの接触」を徹底して避けることが接触削減につながるのである。

 8割削減を正確に表現できないことはこれまでの話からもわかるだろうが、どの程度が8割かはそれぞれの生活に即してある程度はわかってくるのではないか。接触は私たちの社会の中での行為の一部であり、その行為を減らすのではなく、行為の中の物理的な接触の部分を減らすことが重要であることがわかる。最も安全なのは行為自体を止めることだが、行為の中の人とものとの物理的接触を減らすことが肝心なのである。とはいえ、「出社を止める、電車に乗らない、店を閉める」といった行為の停止、「手を洗う、家具や器具の消毒」といった行為の推進がわかりやすく、安全であることは間違いない。